KANTA CANTA LA VITA

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2006年 03月 16日

無知無知己知理

どうも、無知であることを知らない己を知り理った無知無知己知理(むちむちおしり)な『Kanta Canta La Vita』です。現代思想についての本『そうだったのか現代思想(小阪修平著、講談社α文庫)』を読んでいるからでしょうか、ジョークも高尚です。

嘘です。イタリアに来たからという訳ではなく、日本にいるときから、僕は無知であること、それもかなりひどい具合に無知であることは随分前から知っていました。無知であることを知っているのにそれを補おうとしないのは、無知であることと同等、あるいはより程度が低いというのは一般論です。

そうは言っても、生まれ育った所とは違う国や考え方の異なる文化圏に身を置くと、また、そういう場所に暮らすこれまで培ってきたはずのものが通用しない人々と触れ合うと、それでもやはり自分の無知さ加減に呆れ返ります。

知りませんでした。否、知っている知らない以前の問題なのでしょうか。

いくら個人契約(闇契約)とは言え、イタリアでも家賃を払ったら領収書を書いてもらう、あるいは大家との金のやり取りの際は可能な限り小切手や銀行口座を使う、らしいです。領収書も書かない、小切手の使用を認めない、そんな大家は最初から疑ってかかったほうがいい、それが今の同居人アメリカ人の女の子(彼女は2分の1イタリア人です)の言い分です。もちろん日本では、大家さんに家賃を渡せば何も言わなくても領収書が出る、振込みにすれば銀行に記録が残る、それは当然のこととして無意識的に意識していたはずなのですが、最初に今の大家に会ったときに言われたfiducia(信用、信頼)という言葉を信用・信頼(あるいは鵜呑み)して、現金をポンポン大家に渡していました。「あなたを信頼しているから Mi fido di te.」という言葉を信頼して、守らなければならないルールや当然の常識の最低ラインが下がっていたようです。「信頼しろ」とか「信頼している」という言葉を「信頼」するなどという筋書きは、いまどき三流映画でもボツにされる、そんな時代ですものね。今のところ問題なく金銭面のやり取りはできています(精神面のやり取りはできてない)が、いつ問題が起こるとも知れません。解決策を考える前に、問題が起きないようにすることを考えなくてはならないのです。問題が無ければ解決策も無い、これもまた一般論です。問題が起きないようにするためには、さっさと新しい家を探すことが一番です。

時に、今住んでいる家で僕の場合が例外的なのは、保証金も家賃の前払いもなしで入居したことです。イタリアで部屋を借りようとすると、多くの場合1ヶ月から2ヶ月分、多いときには3ヶ月分の家賃に相当する金額を保証金として渡し、何もなければその家を出るときに全額返金、部屋に損傷があれば弁償、差額を返金してもらうというシステムがあるのですが、前にも言ったようにこの国にはシステムは在って無いようなものですから、あるいはシステムが無いというシステムですから、更には機能しないのがシステムですから、多かれ少なかれ保証金の返金でモメるようです。そう言えば、前の同居人も以前住んでいた家の保証金が返ってこない、何かにつけて大家が返そうとしない、そういう話をしていましたし、今の同居人も家賃2ヶ月分の保証金を払ったとかでずいぶん苦しんでいます。

当の同居人カップル(アメリカ人♀とイスラエル人♂)は本拠地探しに随分苦労したらしく、引越しを相当回数繰り返しているとのことです。もう引越しは勘弁して欲しい、この家を最後の家にしたい、そういう話で今の大家と契約(闇契約)したはずなのに、早くも次を探さなければならない、あるいは探したくもなる状況にあるわけです。苦労している分色々なことを学び、知っていますので、同居人としては頼もしく思っております。人間ってなぜ経験からしか学ばないのでしょうね。困ったものです。経験から学ぶという意味では僕の場合、4年前に来伊した時に住んでいたフィレンツェの2つの家いずれも領収書はくれませんでした。僕にとっての闇契約は彼らにとっての闇契約(税金未払いとか)でもあるということ、そういう場合はある程度信頼してもいい「のかも知れない」ということを経験的に知っています。

自分の部屋、あるいは自分の部屋のような映画館に閉じ籠り気味だった日々もようやく過ぎ去り、新しい家探しをするという形で少しずつ社会に触れつつある今日この頃です。社会に触れると、そしてその社会が未知のものであればあるほど学ぶことは多いです。学ぶべきことは多く、知らないことは更に多いです。そういう意味では図らずも陥った「家探し」という困難もかなり楽しんでやっていけそうです。

追記:「愚かなる妹」が僕の書き方を真似したとかいうブログの記事を読みましたが、だらだら、分りづらく意味の無い、文脈も脈絡も、文章の命/魂という意味では脈拍さえ無い、読みにくい文章という意味においてはその真似事は合格点に値すると評価しました。
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by kantacantalavita | 2006-03-16 20:50 | 親愛なる日記 | Comments(0)


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