KANTA CANTA LA VITA

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2006年 03月 31日

大家から出された「妥協案」について①

僕が今の家を出て行くと言ったらあれほど満足そうだった大家のおばさんの、恐るべき態度の急変振りに驚きを隠せない『KANTA CANTA LA VITA』です。驚きを隠せないのと引越しを思い止まるのは全く次元が異なることが誰にとっても想像に難くない、あるいはほとんど既知の事実である、すなわち引っ越す意思に揺らぎはない、何一つ確かなものがない昨今においてこれに関してのみ絶対的に自信を持っております。

ある朝目を覚ますと、事態はすでに変化の兆しを見せていました。否、正確には事態の変化によって目が覚めたのです。それはまず、おばさんの歌声という形を帯びて顕れました。その歌声はあまりにも快活であったため、春眠暁を覚えないはずの僕もほとんど跳び起きたほどです。イタリア人なら朝っぱらからでも歌のひとつも歌うだろう、とお思いでしょうが、そして事実、彼女はそうしたタイプのイタリア人の内の一人なのですが、この数週間は少し事情が違います。間借り人である僕たちと大家である彼女の関係は日を追うごとに悪化し、それぞれがそれぞれの存在を無視して、あるいは無視しようとして暮らす毎日でした。気づかれないようにこっそり家に帰り、部屋に閉じこもる、お互いの存在を意識しながらも顔を合わさない限り挨拶もしない、そんな醜悪しくさえある毎日でした。ところがその日、のんびり寝ていたい土曜の朝にしては喧し過ぎるほどに彼女は歌っていたのです。歌うことによって自分の存在を主張し、その主張によって僕たち、否、僕を呼んでいるのです。目覚めと共にやってきた嫌な予感に、ハートは具体的に震え上がり、膀胱は象徴的に震え上がりました。抱えきれない不安を抱えてベッドから起き上がり、抑えがたい自然の欲求を抑えきれずトイレに向かいました。そして案の定、便器に辿り着く前に彼女に辿り着きました。ギラつく微笑み。微笑みがギラつくのは、微笑みだけではその喜びを表現できない時か、あるいはろくでもない悪巧みをしている時かであるとするならば、その日の彼女のそれはまぎれもなく後者です。

「この放蕩息子!! Sei un figlio prodigo!!」

唐突です。溢れんばかりであった尿意も忘れ、果たしてトイレに向かっているのか部屋に戻ろうとしているのかも判らなくなるほどに唐突です。言葉の意味も彼女の真意も彼女のそのニヤついた笑顔の理由もわからず、ただ「なぜ彼女は歌っているんだ?何を彼女は言っているんだ?彼女の歌声を聞き笑顔を見たのはいつが最後だ?そもそもなぜ彼女は笑顔なんだ?いったい彼女は数日前に『Cantaとはもう話をしたくない。』と言った彼女と同人物か?」と呆けたように自問を繰り返していました。あまりの混乱に辞書がうまく引けません。第一、朝まずしたことが呆気に取られることで、その次にしたことが辞書を引くことなんて一日は馬鹿げています。辞書でpridigoを見つけられない代わりに今やはちきれんばかりの膀胱の緊張感を取り戻し、逃げるように便所に駆け込みました。用を済ませ、昨夜一晩分の尿と一緒にその日いきなりの悪夢も流れてしまったことを祈りつつトイレを出ると、そこにはギラ・ニヤした笑いを浮かべた彼女が依然立っていたのです。(つづく)
(2006年3月28日)
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by kantacantalavita | 2006-03-31 19:19 | 親愛なる日記 | Comments(0)


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