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2006年 09月 26日

ルッツァーラ Luzzara (その4)

「死者は、完全に永遠に死んでいる。」ある作家はその著作の中でそう言った。



ザヴァッティーニは死者であり、彼もまた完全に永遠に死んでいた。彼ら死者の、その静かな死の象徴のように音のない墓地の片隅に、同じルッツァーラ生まれの妻オルガ・ベルニOrga Berniの墓と連れ添うようにしてチェーザレ・ザヴァッティーニの墓はあった。確かに墓石はある。しかし墓石以外に何もない。そこに彼の名前とルッツァーラ生まれであるということ、ローマで死んだということ、その年月日、それらが彼の顔写真とともに刻まれているだけである。供えられた花は造花で、それさえも色褪せ始めていた。ビニルの造花がどれくらい日にさらされればその色を失うのかは知り及ばないけれども、少なくともここ数ヶ月のものではなさそうに見えた。彼ら夫妻に与えられた一角があることが特別であることを除けば、後はその片隅に植えられた一本の木が、その赤い実で彼らの墓を慎ましく飾るだけだった。何かを期待していたわけでもないのに、あまりの素朴さにやや面食らいもしたほどである。

墓石に触れてみたが、その感触は墓の外観同様、完全で永遠の死以外には何も伝えなかった。あるいはこれが死なのかなとも思った。一人の老婆が白い砂の歩道を歩いていく。「こんにちは。」「こんにちは。」生きている自分の声がずいぶん大きく響くのに驚く。死者はあまりにも静かなのだ。

ひとしきり彼の完全で永遠な死に触れた後で、墓地を一周してみた。ザヴァッティーニの祖父チェーザレと父アルトゥーロの墓もあった。全くの偶然にそれを見つけて、少し喜んだ。新しい墓、古い墓、80年代にファシストに破壊された抵抗運動殉死者たちの墓の名残、ずいぶん長生きした女、名前もないまま死んだ赤ん坊、終戦間際に銃殺された男、若くして死んだ母親と一緒に死んだ若すぎる幼子、ほとんどの墓石に陶器に写された写真が添えられている。記念撮影的なもの、スナップ写真、若かりし頃の写真、バイクにまたがる青年、タバコを吸っている男、楽しそうな顔、悲しそうな顔、豊かな表情、無表情。その時僕の前にいた者たちは完全に永遠に死んでいた。古いフィルムを観ていて、それが100年以上も前のものだったりして、何かの群衆を撮ったものであるとき、しばしば彼らの死を考えるときがある。彼らのそのほとんどが確実に死んでいる。そんな映画を観ているときと同じような、確実な死との近接を感じる。

幾つかの墓のそばには持ち込まれたような古ぼけた椅子が置いてある。寡黙な死者と語りたがる生者の指定席。

ザヴァッティーニの死に、また来るよと告げ、墓地を後にする。墓地から伸びる並木道に人影はない。死に向かって生きる、あるいは死と寄り添って生きる最後に残った人間が僕なのか。もちろんそんなことはない。耳をすませば、車のクラクションが聞こえ、犬の吠える声が聞こえ、テレビの音が聞こえ、食器の触れ合う音が聞こえる。でも人影は見えない。あるいは、音が聞こえるか聞こえないかの違いくらいに、こんなにも生と死は近いのかもしれない。

(つづく)
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by kantacantalavita | 2006-09-26 06:47 | 親愛なる日記 | Comments(0)


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