KANTA CANTA LA VITA

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カテゴリ:映画とは何か(cinemaについて)( 29 )


2011年 02月 20日

「イタリア映画界の異端児 アゴスティの世界」 元町映画館(神戸)にて開催

ODCのオールドファッション幹太こと『Kanta Canta La Vita』が字幕翻訳に携わった映画たちが公開されます!
すべてDVD上映ですが、心の目で「見えないもの」を見てください。そして、「フィルムで見たほうがより『見えないもの』が見えるはず」という思いを持ったなら、ぜひぜひご連絡下さい。僕たちには、アゴスティさんの映画とフィルムを日本に届ける責任があります。

「僕たちは甘くない!」を合言葉に、甘ったれない個性的なドーナッツを目指す大阪ドーナッツクラブの活動にご期待あれ! 



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by kantacantalavita | 2011-02-20 17:31 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(0)
2007年 06月 26日

月間観た映画リスト2007年6月giugno

2007年6月に観た映画です。(2007年6月26日現在)

「コメントcomment」では、感想やらメモやらを観た作品ごとにまとめて記しております。多くは単語レベルでの雑記ですが、個人的な関心ごとという点から、使われている技術と物語の関係、さらには物質としてのフィルムへの言及を話題の主としつつ、その都合上物語の結末などにも触れる場合があります。それを理解いただいたうえで、更なるコメントなど寄せていただけましたら幸いです。

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以下、"原題", 『(あれば)邦題』, 監督, 製作年, 製作国, 上映時間

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"Il vento fa il suo giro", Giorgio Diritti, 2005, Italia, 110min

"I pugni in tasca", 『ポケットの中の握り拳』, Marco Bellocchio, 1965, Italia, 110min

"City Lights", 『街の灯り』, Charles Chaplin, 1931, USA, 81min

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by kantacantalavita | 2007-06-26 19:07 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(3)
2007年 06月 26日

劇場で映画を。

e0017332_939687.jpg劇場で、チャップリンの『街の灯』(City Lights, Charles Chaplin, 1931)を見てきました。劇場と言っても映画館ではなくて、いわゆる本当の劇場、ボローニャ市立劇場(Teatro comunale di Bologna)です。今回の留学を通じて初めての劇場です。あるいは生涯最後の劇場かも知れません、というのはやや大げさだとしても、この先そう数多く経験することではないように思われます。

いわゆる良い席は他にもっとあったにもかかわらず、僕は一番前の席を予約しました。スクリーンにできるだけ近く、という思いもありましたが、今回はいつものそれとはちょっと違います。なぜなら今回の上映は、市立劇場のオーケストラによる演奏がついていたからです。

そんなわけで、僕の座る位置から1mくらいのところで、指揮者が指揮棒を振るうという、長い映画経験の中でも稀有な体験をしました。オーケストラ・ピット(通称オケピ)は目の前です。作品の鑑賞だけについて語るのであれば、あまり良い席とは言えませんが、「映画そのもの」、イタリア語で言う"cinema"を楽しむ傾向にある僕にとっては特等席でした。もちろん、作品自体がとても良かったこと、劇場で映画を見るという経験を存分に楽しんだことは言うまでもありません。

e0017332_9482285.jpg市立劇場では、今回の『街の灯り』の他に、『キッド』、『モダン・タイムス』などが上映されますが、ちょうど復元映画祭と重なります(映画祭の一環でもあります)ので、恐らく今回が、最後の劇場鑑賞になることでしょう。いやらしい言い方ですが、僕には映画館がお似合いです。劇場はあまりにきらびやかで、その実スクリーン横の電灯が点きっぱなしで真っ暗ではなかったのですが、僕はやっぱり映画館の暗闇が好きです。まあどうでもいいことですか。

きっとああいうのは、僕みたいなタイプの人間はたまに行くから楽しいんでしょう。それくらいで良いです。過剰は禁物です。
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by kantacantalavita | 2007-06-26 09:39 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(0)
2007年 06月 16日

外部連載コラム裏話その8

最近、特に『シネマテークにしねまっていこ』の裏話を書いていなかったから、以下でそれに代えます。

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「2007年度最後のチネテカ上映に学ぶ、あるいは拳はまだ握られている」

イタリアは、6月を年度末としている。大学の新学期が始まるのは、夏休みが終わった11月からだと法律で決まってるらしいが、それでも9月末から授業が始まったりして、新年度の落ち着かなさがある上に流動的で、何かと忙しい。12月に入るとクリスマスと年末年始休暇が迫り、また街中がそわそわしてくる。当たり前だけれど、どこか浮ついている。年明けの1月は休みボケのような、地に足が付いていない感じがするものだけれど、それも2月になればようやく静けさを取り戻し、3月である。驚いたことに3月は日本の年度末で、いくつかある日本人観光客が増える季節のひとつだ。イタリアで好き勝手に暮らしているにもかかわらず、そういうものに影響を受けフラフラしている間に、世間ではカーニバルが終わり、復活祭の休暇に入り、4月が終わる。4月5月6月と必ず国民の休日がある月が続き、6月も中盤を過ぎると、もう気分は夏休みである。1年が終わってしまうのだ。イタリアを変える必要があるとするならば、この年度制度をまずどうにかした方が良いと僕は思うのだけれども、変わらないところを見るとイタリア人はこれで大いに満足しているらしい。

きちんと仕事をする人もいるのに、イタリアでは1年中遊んでいるような誤解を招きかねないことを、なぜ書いたかというと、今月は年度末、第二の我が家であるボローニャ市立シネマテーク(誰が呼んだかチネテカ)の通常上映が終わったのだ。さびしいのである。

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通常上映とここで僕が言うのは、何も帰国前にもう二度とチネテカに入れないわけではないからで、今月の最終日からはボローニャの夏を飾るCinema Ritrovato(復元映画祭)も始まるし、その後もいくつかの上映がまだあるからだ。これからの2週間は夏の映画祭や特別上映に備えた準備期間なのだろう、時を同じくして、街の中心マッジョーレ広場に、野外上映用のスクリーンの建設が始まり、チネテカでの上映がない分、街の中心からはいくらか離れたArena Puccini(アレーナ・プッチーニという公園みたいな所)での有料野外上映も、チネテカの通常上映修了と入れ替わりで昨夜から行なわれている。いくつかの映画館は夏休み休暇に入ってしまったけど、もちろん営業している映画館もある。映画が消えることのないこの街にあって、夏休みだからと言って映画が見れないと嘆くことはないのだけれど、何が悲しいと言って、やはり、次にチネテカの通常プログラムが再開される時、僕はもうこの街にいないことだ。

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e0017332_2011163.jpg最終日の最終上映には、もちろん駆けつけた。マルコ・ベッロッキオ監督『ポケットの中の握り拳』(I pugni in tasca, Marco Bellocchio, 1965)。昨年の5月24日にも同じチネテカ、マストロヤンニ上映室で鑑賞した作品だ。あれから1年以上が過ぎてしまったことに閉口したことは言うまでもないが、さらに驚いたのは、あの時フィルム上映だった同作品が、今回はテレビからの録画ビデオの再生だったことである。

最終上映の映写室の様子を目に焼き付けようと、いつもと同じ前から3列目、真ん中の1個右の席に腰を下ろし、キャビンに目をやる。おいおい、プロジェクターの光源が点灯しているじゃないか、何の間違いだ。前の上映の『殺人捜査官』(Indagine su un cittadino al di sopra di ogni sospetto, Elio Petri, 1969)はフィルム上映だったはずだ。気分が萎える。しかし待て。奇跡的な思考の転換。映画作品を見ることが重要なのだろう。フィルムでしか見ないとか、スクリーンじゃなきゃ映画じゃないとか、そういう原理主義的な考え方は、この際、捨てろ。

チネテカに自転車で20分という所に住み始めて1年以上が過ぎ、名実ともに第二の我が家としてチネテカに通い詰め、フィルムで映画が見れることを当然と思ってしまっていることは、あと数ヶ月もしたら日本での暮らしがまた始まることを思えば、恐ろしい錯覚である。多くを教えてくれたチネテカの、最後のレッスンだったのかも知れない。

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「チネテカからの最後のレッスン」、そう思ってしかるべき理由はある。

何よりもまず、映画が100%フィルムではないことを再確認した。前回、すなわち最終上映の前に最後に見た映画も、デジタル撮影で、上映用になんとかフィルムに変換された作品『風には風の路がある(役は筆者)』(Il vento fa il suo giro, Giorgio Diritti, 2005)だった。世にはデジタル映画館というものもある。あるいは今後さらに増えるかもしれない(ボローニャにもあるし、山形にもある)。

次いで、映画館での映画鑑賞は、作品を他の誰かと共有することであること。そこはあくまで観客すべての場であって、なにも僕一人の秘密の隠れ家ではないのだ。相撲を見たり、野球を観戦するのと一緒で、その場の雰囲気も含めての「映画」なのだ。それがイヤなら、暗い我が家のパソコンの前に座って小さな画面を睨みつけるしかない。ホーム・シアターなるものが普及するのも良くわかる。僕もいずれはほしい。しかし、座布団投げをする客を楽しむように、作品に対してブツブツいう観客を楽しみ、質の悪いプレーにブーイングする客を楽しむように、不出来な上映にブーイングする観客を楽しもうとするのは、寛容すぎるだろうか。映画館に集う人々には色んな人がいて、生涯を映画に捧げたかのようなマニアと、映画館をエロの場としか考えていないカップルが、ひとつの空間を共有し、作品を通じて若かりし頃を追体験するおじいちゃんと、そのおじいちゃんの話を上映中に聞いて追々体験する孫が隣り合う席に座る、そういう場所なのだ。

実のところ最終上映も、作品の上映とそれを取り囲む環境は、これまで体験した中でも最悪の部類に入った。時間が来ても始まらない。よりによってテレビ録画の映像。始まったと思ったら音声がでない(「音!」と叫ぶ客たち)。場内の灯りがつき、巻き戻しをして再上映するも今度は一緒に録画したとしか思えないインテリぶったおじさんの解説が始まる(場内爆笑)。気を取り直して再開された上映中に画面の調節が始まる。突然画面に現れる「消去しますか?」の文字(場内大爆笑)。登場人物の台詞に「ぎゃはは」と笑い続けるひとりの若者。足癖の悪い、後ろの席の青年。それでも僕が席を立たなかったのは、何より作品が素晴らしかったからだ。

僕をここまで寛容にしたきっかけはイタロ・カルヴィーノの1953年の文章の一節で、その寛容さが求められた場所が、チネテカだった。完璧な上映環境を求める観客は、なかなかここには馴染まないかも知れない。屋外の救急車のサイレンが聞える上映室は、イタリアの救急車のそれの規格外のやかましさを割り引いても、あまり体験したことがない。THXで知られるジョージ・ルーカス(George Lucas)などは、気が狂ってしまうかも知れない。フィルムが燃えるのを見たのもこの上映室だったし、女優に対する恋心が燃えたのもこの上映室だった。あまりの映像の美しさに声を失い、フィルムのあまりの劣化具合に声を失った。携帯をチカチカさせてる女の子に「出て行ってくれ」と言ったのもこの上映室で、足をごそごそし過ぎて注意されたのもこの上映室だ。ベルナルド・ベルトルッチが噛んだガムがあそこについているのもチネテカで、このチネテカの代表のひとりはその弟ジュゼッペだ。ここには、「映画のすべて」があった。

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映画フィルムを劣化させないためには、ある程度定期的に上映することが求められると言う。リールやコアに巻かれたままでは、巻き癖がつくし、外気に触れさせることも重要なんだとか。

僕のチネテカでの思い出を劣化させないためにはどうすれば良いのか。おそらく、「ある程度定期的に上映すること」が必要なのだろう。上映室はこのチネテカ。つまり、ある程度定期的にチネテカに通うことができれば、忘れないんじゃないかしらん。フィルムも毎日上映すれば、映写傷ができるだろうし、その分リスクも大きい。僕もこれ以上、毎日のように通い詰めたら思い出をつくるどころか、それだけで充足してしまう。おそらく潮時なのだろう。

ある程度定期的にチネテカに来ることができる人生がどんなものであるかは、今の僕には言うことはできない。人生そのものがまったくもって不透明だからだ。不透明であるという点では、澄み切っている。さっぱり想像もつかない。ただ、どこかで、長年離れた故郷に帰るように、チネテカを訪れることができれば、そのときにこの上映室で映画を見ることができれば、僕の思い出も同じスクリーンに映写できるのではないかと思う。

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『ポケットの中の握り拳』のフィルムは、どうなったのだろうか。なぜ今回がフィルム上映でなかったのかは、なんだかんだと言ったところでやはり気になる。思い返せば、昨年の上映の時も、フィルムの状態はそれほど良くなかったはずだ。この1年で、映写が不可能になるくらいに決定的に傷んでしまったのだろうか。よくわからないことに対する苛立ち。寛容と無関心は違う。フィルムはどこへ行ったのか。フィルムはどこへ行くのか。死ぬことで開かれた、アレッサンドロのポケットの中の握り拳は、僕の心の中でまだ握られたままである。
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by kantacantalavita | 2007-06-16 18:05 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(0)
2007年 05月 18日

外部連載コラム裏話その7

ようやく(!)DVDの話を終えることができました。大体にして物を書くときに見切り発車なことが多いのですが、今回ばっかりは痛い目にあっている感覚が最後まで抜けませんでした。

まず、DVD商品で「映画を語る」試みに対する準備の無さ。様々な局面で情報不足に悩み、結局「わかりません」とか、「困りました」とかレトリックではなく言ってるのには、本当に自分でもつらかったです。新しいことの発見を報告する論文でも、これまでの研究を整理したノートでもない、コラムというスタイルを甘く見ていたというか、軽んじていた部分が少なからずあります。いずれにおいてもモノを書くということは、そしてそれを人の目に触れるところに掲載するということは、無責任でいてはいけないはずなのに、事実丸投げしていることには自身ずいぶん苦しんだのです。

次いで襲われた、自らの力不足という現実。準備不足で力不足じゃ、書けるものも書けません。ひとつひとつの題材をもう少し大切にしたかったんです、本当は。

でも、色々とわかったこともあります。書いていて、「これは面白くなるぞぅ!」という気持ちの高ぶりはあったんです。多くの人にとって、こいつはいったい何をそんなに大声で叫んでるんだ、という面ばかりが露になった連載でしたが、目の付け所は悪くない、その意識は一応の終わりを迎えた今も持っています。その意味で、「『ポンペイ最後の日』論序説」なんて言葉を用いてしまったわけです。

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DVDはとても便利です。デジタルの良さは、映画の裾野を広げたこと、つまり撮る人も見る人も売る人も買う人も選択肢が増えたことです。お金もそんなにかからない、というのも大きいですね。500円DVDなどは唖然とするばかりです。スチル写真にしても8mmフィルムにしても、今の世はやっぱり「フィルムは高い」という認識で落ち着きつつあります。

でも、フィルムはやっぱり良いですよ、きっと。

何よりデジタルは(少なくとも僕には)ややこしい。目に見えない数字だから持ち運びも便利で、コピーも簡単、ところが越えるべき壁が多い。今回の特集を組んで、一番の問題だったのは、僕のパソコンで、カゼリーニ版が普通には見れなかったことです。フォルダを開いて、4つに分けられたファイルをそれぞれ再生するためのプログラムを選択して要約映像に辿りつく、という具合で参りました。

ビデオ屋で働いていた経験から、言い訳のひとつのこういうのがあったのを知ってます。「ソフトとハードの相性ってあるんですよね」。事実、当のソフトは僕以外の多くの友人のパソコンでは何の問題もなく鑑賞できました。図書館からのレンタルの時も確かに、おかしいな、と思ったのを憶えています。すぐ止まるし、ある部分は完全に見えない。「勝手に再生」されない。まあ、パソコンで見れなくてもDVDプレイヤーで見れれば良いだろうと一瞬考えました。しかし。このDVDは日本の普通のプレイヤーでは見れません。「ああ、リージョンコードが違うんだね」、いや、一緒です、2です。問題はイタリアがPALで、日本がNTSCだということです。まあ今さらすべての規格を統一しろというのはずいぶん難しいことは想像できますが、それにしてもなんか変です。コーデックとか圧縮方式とかわかったようで実はいまだにさっぱりです。

ちょっと違いますけど、日本のインターネットの動画がイタリアで見れないって、インターネットの便利性が完全に失われてるような気がします。yahoo動画は、イタリアではまったく無意味です。

ならフィルムはそういう問題が一切ないかと言うとそうでもないんですけど、例えば映写の際の周波数の問題とかありますが、日本のように国内で50Hzと60Hzと違いがあることは稀なようですし、何よりフィルムそれ自体は同じなのです。

本来至極便利なはずのデジタルが、便利になりきれていないところに、それが抱える問題が見え隠れします。デジタルのことも「やりはじめれば」とても楽しくて、その分抜け出せなくなりそうな予感はあるのですけれど。

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こちらで何本か、DVDを購入し、研究に役立つであろう映像素材はVHSで入手しました。帰国して、いったいどうやって見るつもりなのでしょう、俺。

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e0017332_22114158.jpg「フィルムはやっぱり良いですよ」などと書きましたが、なぜ良いのかについて考えております。もちろんあくまで「見る側の視点」で、です。映画を見るにつけ、一番大事なのはスクリーンが大きいことを挙げますが、それだけならフィルムは絶対条件ではなくなりつつあります。2005年3月に参加したデジタルとフィルムに関するシンポジウムで見たデジタル映像の美しさには驚愕しました(実にデジタルらしいミスもあったんですけど)し、そもそもデジタルで撮られた映像をフィルムで上映するというのはほとんど主流のひとつになりつつあります。「レコードのノイズが好き」的に、傷んだ映像に架空のノスタルジーを抱くことは本末転倒ですし、いつの日かデジタルがフィルムの画質を獲得したり、あるいはそれを超えてしまったときは何をもって「やっぱりフィルムだね!」と言ったら良いのでしょう。

レコードはジャケットが大きいから良いね、と言った風に、「フィルムはあのぺらぺらした『物っぽい』ところが良いのだよ」という立場には留まっていられないのです。
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by kantacantalavita | 2007-05-18 20:45 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(0)
2007年 04月 07日

パンと恋とコメンチーニに宛てた短い手紙。

ルイージ・コメンチーニが亡くなりましたね、90歳、また大御所が去りました。明日土曜日、ローマの「映画の家」に献花台が設けられ、カヴール広場にある教会でお葬式らしいです、なんで、この瞬間ローマにいないんでしょう、『KANTA CANTA LA VITA』です。明日締め切りのコラムやちょっとした文章をうっちゃって、今これを記します。

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親愛なるルイージ

今年に入ってからもまた『パンと恋と夢』を観ました。恐らく三度目か四度目だと思いますが、フィルムで、スクリーンで、映画館で観たのは今回が初めてでした。いつも以上に、ジーナ・ロロブリージダにニヤニヤし、ヴィットリオ・デ・シーカに声を上げて笑いました。ジーナのかわいい膝下、「アァー、バッロー!!」はいつでもすぐに甦ります。

あなたが演出した『ブーベの恋人』のクラウディア・カルディナーレに恋をしました、短い髪、白いブラウスは忘れられません。ジーナも良かったですけど『パンと恋と夢』のマリア・ピア・カズィリオは『ウンベルトD』の彼女とはまた違った魅力がありました、マリア・ピア(10代)とジーナ(20代)、そしてデ・シーカの相手役にマリーザ・メルリーニ(30代)、そして家政婦にティナ・ピーカ(70代目前)を料理し切ったあたり、冴えてましたよ、あなた。僕のパニーノやスパゲッティやリゾットにもfantasia(空想、夢)が入るようになったのも、「何挟んで食べてんだ、パンに?」「へへ、夢でさぁ、署長」なんて言う台詞を盛り込んだ作品を撮ったあなたのおかげです。"La valigia dei sogni(夢が詰まった鞄)"では、こっちに来て映画保存の授業に参加したときに、「物質としてのフィルム」周辺の面白い映像をたくさん見せてもらいました、今こそああいう映画をみんな観た方がよいですよね、日本でDVD化させてください。『ミラノの恋人』はステファニア・サンドレッリとジュリアーノ・ジェンマが出演しているということだけでビデオをダビングしましたが、あなたが監督しているんです、帰国したら必ず観ます。10代の頃観た『マルセリーノ・パーネ・ヴィーノ』はさっぱりわからなかったけど、今なら楽しめる気がします。

僕は今、ザヴァッティーニだとか、ネオレアリズモがどうだとか言ってますけど、「バラ色のネオレアリズモ」も大好きなんです。あなたは嫌がるかも知れない肩書きですし、「ネオレアリズモからの逃避だった」なんて言う者もいますが、それがどうした、今なら「あなたも正しかった」ことがみんな良くわかるはずです、当時の映画人、それぞれがそれぞれの道を模索した50年代だったんですもんね。

近々ボローニャのチネテカでもあなたの特集をやるでしょう。死んでから取り上げられるという世の中はどうかとも思いますが、死んでも取り上げられない映画人がどれくらいいるのかを思えば、やはりあなたは素晴らしい映画人ですし、観れるのであれば、喜んで、できる限り観たいと思うのです。

ではまた。

『KANTA CANTA LA VITA』より
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by kantacantalavita | 2007-04-07 04:57 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(0)
2007年 04月 03日

映画とは何か ~イタロ・カルヴィーノ編~

イタロ・カルヴィーノItalo Calvinoというイタリア人作家をご存知でしょうか。かく言う僕も恥ずかしながら実はそんなに知らないのですけど、唯一読んだ『マルコヴァルドの四季Marcovaldo ovvero le stagioni in città』の不思議な雰囲気を覚えています。イタリアの20世紀文学を代表する作家のひとりです。

批評を書いたり、映画関連の本の序文を頼まれたりと、映画の造詣も深いカルヴィーノですが、映画雑誌に掲載されていた彼の記事で面白いものを見つけました。引用しましょう。

「映画とは、座席で鼻を鳴らし、息を切らし、すすり泣き、菓子をポリポリかじり、あなたの邪魔をし、出たり入ったりし、ときには無声映画時代のように字幕を大声で読んだりする、そうした人々の間に腰掛けることを意味します。そうした人々と、加えてスクリーン上で起こる物語が映画なのです。」
~1953年5月1日付け『チネマ・ヌオーヴォ』誌第10号の投稿より~

"Cinema vuol dire sedersi in mezzo a una platea di gente che sbuffa, ansima, sghignazza, succhia caramelle, ti disturba, entra, esce, magari legge le didascalie forte come al tempo del muto; il cinema è questa gente, piú una storia che succede sullo schermo."
Cinema nuovo, Anno II - N.10, 1 maggio 1953~


これは、僕らにはなかなか言えた言葉じゃありません。イタリアの観客は日本のそれに比べて圧倒的に行儀が悪いですから、今皆さんが想像している映画館の様子を5割増くらいでひどい状態にしたもの、それをカルヴィーノは「映画cinema」だと言うんですね。足癖の悪さ、鳴り響く携帯電話、上映中の話し声、ピンボケとずれたフレーム、上映前にスクリーンに映る文字を声に出して読んでしまう性質、これらにはいささか辟易とすることもありましたが、今ではずいぶん寛容になったものです。とは言え、あれ全部を映画だなどと言われると、若干映画を諸手を挙げて好きだとは言えなくなりそうですし、その反面、あれも映画の一部なのだからと、さらに悪童たちに寛容になれることだってありそうです。なかなか深い文章です。

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イタロ・カルヴィーノについては、イタリア文化人発掘調査団ODCのHP上で、先日ローマで初対面した同僚ハムエッグ大輔が『a LITTLE about a LOT』というコラムに書いてますのでそちらを参照ください。
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by kantacantalavita | 2007-04-03 05:09 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(0)
2007年 03月 30日

外部連載コラム裏話その6

e0017332_19252763.jpg今回のコラムの最後にも書いておりますが、全3回でお届けする予定でした『DVDに学ぶ』は「僕の文章をまとめる力の無さ」と、「勝手な興奮を抑える力の無さ」、つまりはいずれの場合もある種の「自制心の欠如」からもうしばらく続きます。「『DVDに学ぶ』 後編 (その1)」ってなんですか。自分でも恥かしいです。しかも今回のは恐らく分量としても最長で、読むのがえらくしんどいです。書いた本人が言うんですから間違いないはずです。かたっくるしい話では無いはずですし、知識をひけらかすような文体にもならないように注意はしていますが、それでもやっぱり何より「長い」です。精進します。

あと、こんなことを書いてしまって大丈夫かとも思うのですが、裏話ですからまあ良しとして、と言うのは、あのコラム『DVDに学ぶ』の中で僕は決定的なウソをついています。映画関連の情報についてのウソではありませんし、あるいは自覚していない間違いがないなんてことも言い切れないのですが、そういうことは自分で気づいた時や読者の皆さんに指摘された時に直せばいいですし、そういうのではなくて、つまりあのコラムを書くに至った経緯・背景について若干の「創作」があるということです。僕がよく言うのは、「どんな事実も文字にした時点でフィクションになる」ということでして、その意味で僕が書いてるコラムは創作や引用を多く盛り込んだドキュメンタリー風、あるいはルポタージュ風な第1回に象徴されるように、事実に基づいた「創作」であることが多く、ところが今回のウソ(創作)はそれ自体が笑い話じゃないかというような類の、情けない話を隠したために出来上がったのです。

「DVDに学ぶ 中編」を見て見ましょう。DVDセット「ポンペイ最後の日」のジャケットの下から続く文章の初めにはこうあります。

DVDを手に取ると(中略)、表面上部の「セルジョ・レオーネの最初の作品(IL PRIMO FILM DI SERGIO LEONE)」という言葉が何よりもまず目に入り驚きました。


e0017332_20411922.jpgこれは完全にウソです。創作ではありますが、この場合は「ウソである」と言ったほうが正直です。どういうことか?僕の目にまず飛び込んだのは「レオーネの作品」とか、コラムで続けているようなリマスタリングに関する文字列でもなかったのです。では一体、何が僕の注意を引いたのか。・・・・・・主演女優の美貌です。美貌といえば語弊があります。とにかく「かわいい」。セルジョ・レオーネのコーナーに、未見の作品があったことなどすっかり忘れて、しばし彼女に見惚れた後、この女優が誰なのか、パッケージに他にも彼女の写真が使われていないかを詳査したその後でようやく、「あれ?レオーネの作品って書いてあるなあ」と女優の可愛らしさの前では幾分トーン・ダウンして思ったわけです。もちろん自己弁護をすれば、「あれ?レオーネの作品にこんなのあったか?ん?オリジナル・ネガ?え?特典映像で古典を丸々1本収録?しかも完全版?完全版ってなんだよ?」という具合に、ひとたび女優から注意が離れるや、いっぱしの映画好きに戻って色々考えていたのも事実で、そこから今回の特集は生まれたわけです。

e0017332_20422787.jpgさて、本当の意味で特集の生みの親とも言えるこの女優クリスティーヌ・カウフマンChristine Kauffman(IMDb)について少し。ボナール作品の『ポンペイ最後の日』は、一部の批評ではその女性出演陣(クリスティーヌ・カウフマン、バーバラ・キャロルBarbara Carroll、アンヌ・マリー・ボーマンAnne-Marie Baumann)の美しさが取り上げられますが、確かに三者三様の美しさがあって、その中ではクリスティーヌは最年少で、インターネット・ムーヴィー・データベースを見てもわかるように、1945年生まれの彼女は1959年公開のこの作品の撮影に参加した当時はまだ13歳か14歳だったことにまず驚かされます。中学生には見えません。とにかくその若させいもあってか、個人的な印象としては作中、ほとんど演技をしているようには見えず、こと演技に関しては他のキャロル、ボーマンの次点に甘んじています。ところが映画とは面白いもので、この3人の中ではクリスティーヌのキャリアがもっとも長く、比例して出演作品も多い。あるいはクリスティーヌはこの後歳を重ねるごとに演技に磨きをかけていったのでしょうか、後年の作品を観ていないためわかりません(『バグダット・カフェ』は見たけど当時知らなかったんです)。

クリスティーヌの写真がパッケージに使われていなかったとしても、『DVDに学ぶ』は書いていたでしょうけれど、それでもやや凡庸な作品の鑑賞を楽しませてくれたという意味で、記憶に残る女優になりました。

その他の画像(作中より)
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by kantacantalavita | 2007-03-30 19:08 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(0)
2007年 02月 23日

外部連載コラム裏話その5

チネテカ(内のチネマ・リュミエール)訪問について書いた外部連載コラムでイタリアの映画館における「休憩intermezzo」について少し触れましたが、先日読み終えたリチャード・ラウド著、村川英訳の『映画愛』という本に面白い、というか面白くなりそうな引用がありましたので、さらに引用します。

その夜は二つあるプロジェクターのうち一つしか動いていなかった。付け加えれば、プリントには字幕が入っていなかった。・・・・・・リールを変えるために十五分毎に明かりが点けられたが、このために映画のエピソードがふえたようにも思われた。こうした条件の下で上映されたにもかかわらず、フィヤードの傑作は、その魅力の背後に潜んでいる美学的な原理をはっきりとあらわしていた。映画が中断するたびに「アッ」という失望の声が上り、新たに再開されるたびに解決を望むため息が聞かれた。物語は我々の注意をひきつけ、我々は物語から生じる緊張感によって、ただそれだけで完全に魅了された。中断のために前のアクションが途切れることなど論外であった。・・・・・・〈以下次号〉によって生じる耐え難い緊張と不安な期待とは、物語がどのように続くかということよりも、中断された創造行為がどう展開されるかにあった。実際、フィヤード自身、彼の映画作りにおいて同じような手順を踏んでいた。彼は続編についてのアイディアを持っていなかった。朝のインスピレーションが浮かぶままに、次々と続きのエピソードを映画化していった。作家と観客は同じ状況にあったのだ。言いかえれば、「王とシェーラザード」の関係であり、映画館の暗闇で繰り返された中断はバラバラにされた『千夜一夜物語』に比することができた。


これは、同著p.112にあるアンドレ・バザンの引用で、出典は我らの教科書『映画とは何か』の第4巻だと脚注にあります。さらに訳注によれば、「ここでバザンは、オムニバス映画と新聞連載小説を比較し、〈次回へ続く〉という中断の意味を分析している」らしいです。今手元に『映画とは何か』がないので全文は確認できてませんが、面白いですね。前回の「裏話」で触れたリールと映画の上映の話を思い返せば、そう難しい話ではないはずです。連載小説における「つづく」とオムニバス映画における中断(挿話ごとの幕間)を、アラビアンナイトでシェラザードが王を「続きはまた明日の夜にね♡」と言ってじらすことによって他の女への夜這いをやめさせた逸話とのアナロジーで語っているわけです。

ルイ・フィヤードLuis Feuillade(IMDb)については未見なので多くは語れませんし、ほとんど偶然の一致で特に周到な準備もなく「朝のインスピレーション」的にコラム『シネマテークにしねまっていこ』を綴っているため、シェラザードのように聞き手である王(読者)をじらす意図は全くありません。それでも、隔週掲載という形式を取っているため図らずも連載小説的な雰囲気が出てしまっているのは自覚していたところですので、それで少なからぬ読者の方たちがじらされているのであれば、つまり2週間のintermezzoでじれるような読者がいてくれるのであれば、書き手としてはこの上ない喜びですし、もちろんそれくらいのものは目指したいのです。まあ、アナロジーで話をするならば、間違いなく僕のコラムは、フィヤードでもシェラザードでもなく「映写機1台でフィヤードの作品をやっつけ上映したシネマテーク・フランセーズの映写技師」的と言った方が正確なのはわかっています。

さて、バザン先生が断ち切られたフィヤード作品の上映で見出した「美学的な原理」とはなんでしょう。恐らくモンタージュのことを言っているのだとして間違いはないと思いますが、どうなんでしょう。映画においては切ることと繋ぐことはほとんど同義ですから、その切ったり繋いだり(モンタージュ)から生まれる意味を、「次号につづく」、「第1話終了」、あるいは「また明日の晩♡」や「休憩intermezzo」を通じて考えようとしていたのではないかしら。やろうとしていること自体がモンタージュ的です。

言及したのは良いけれど、行き着く先を見失っていた「休憩」についての話題を拾ってくれたのもアンドレ・バザン先生でした、という裏話。ラウドの『映画愛 ~アンリ・ラングロワとシネマテーク・フランセーズ~』についてはコラム内で触れていくことにします。
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by kantacantalavita | 2007-02-23 01:31 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(0)
2007年 01月 27日

外部連載コラム裏話その4

外部コラム「シネマテークにしねまっていこ」(第4回)について少し。

前回分(チネマ・リュミエール潜入の前編)では、自分でも、ちょっと書きすぎたなと思ったくらいに長々と書いてしまって、後編がやや尻ツボミになってしまったのを反省しています。

このブログでは、出し惜しみして結局書けなかったネタがずいぶんあって、そんなことになるくらいなら書くだけ書いて、ストックのネタが尽きたのなら改めて探せば良いというのを今回はモットーとしてコラムには取り組んでおります。後悔(してるんですけど)しても仕方がないので、とりあえずは尽きるまでやってみましょう。

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e0017332_9433435.jpgリュミエール内に飾られていた「リールとその周り」、つまり「映画cinema」について。

リールってなんだろうって思った方もいるんじゃないでしょうか。一般的には、リールといえば釣竿にくっついてる糸巻きの方を想像する人のほうが多いんじゃないでしょうかね。うん、何かを巻くものをリールって言うんですよ、きっと。で、映画の中で巻くことを必要とするもので、まず頭に浮かぶのはフィルムですよね。そうなんです、フィルムを映写したり持ち運びしたりする時に巻くもの(軸と、巻いたフィルムが崩れないようにする支えが付いてる)をリールって言うんですね。

e0017332_945234.jpg画像を見つけることはできませんでしたが、恐らくはリュミエール兄弟のシネマトグラフも映写時にはリールに巻いたフィルムを流したのではないでしょうか。シネマトグラフではないですけど、初期の上映で光源の前を通り過ぎたフィルムが映写機下のかごに納まっている画像を見たことがあります。投射後(仮にアウトとしましょう)はそれでも良いかも知れませんが、実は全く良くないんですけど、さらにインの方はそうは行かないですよね。上映時間が1分未満の『列車の到着』でさえ15mの長さがあったとのことですから、そのカサを考えれば巻いておくのが一番です。巻かないわけにはいかないのです。だとすれば、映画の誕生がエジソンのキネトスコープではなくリュミエールのシネマトグラフだと言われるのは個人鑑賞的にのぞくのではなく観客の前のスクリーンに映写したことが最も大きな理由とされますが、それを実は陰で支えていたリールは映画史の最も古い証人かも知れません。巨大な輪っか状にしたフィルムを無数の車輪を介して延々と見ることができたキネトスコープにはリールはありませんもんね。実際のところ、エジソンは次に発明した(特許を買い取った)ヴァイタスコープではリールを採用しているようです。

35mmのフィルムで撮られた映画は毎秒24コマの上映で、90分の上映時間ならその全長は約2500mにも及びます。幾ら薄っぺらのフィルムとは言え、きちんと巻いたとしてもその直径はとんでもないものになるはずですし、そもそも重さが20kgくらいになるので扱いに困ってしまいます。そこで扱いやすいサイズのリールに分けて上映することになります。90分の作品は概ね、直径40cmのリールで5巻になります。それでも1巻4kgですからなかなか手ごわいんです、フィルムは。

e0017332_10443554.jpg90分の作品を5巻に分けるということはどういうことか。1回の上映の中に4つの繋ぎ目ができるということです。映画館で映画を観ていて(家庭用ソフトでも見かけますが)、画面の右端に一瞬小さな丸が見えたという経験はないでしょうか。実はあれがその繋ぎ目の印で、キューcueとか呼ばれるんですけれども、観客にそれを知らせるためにあるのではもちろんなく、映写技師がフィルムを交換するための目印なんですね。僕は実際に35mmの映写をしたことがないからよくわからないんですけれども、このことを考えると、5巻のフィルムを途切れなく映写するには最低2台の映写機が必要になります。つまり上映中のフィルム用とその次の巻用です。キューが見えたらもう1台の方を動かす。観客に知られずにつなぐには技術が要りそうです。時々古い作品の映写でキューがなかったりして、繋ぎがうまくいかず映写技師が驚いている様子が想像できることがあります。

リールの大型化で90分を2巻で上映できるようになってもそれでも映写機は2台必要で、映写機が1台しかない場合は、交換の時に例の休憩intermezzoが入ります。観客はトイレに行ったり前半の復習をしたり何ならエスプレッソの1杯でも飲めますが、映写技師はフィルムを交換して、巻き直して、場合によっては他の映画館に持って行ったりして(その辺の細かい作業は『ニュー・シネマ・パラダイス』が詳しいです)、休憩はないのです。

e0017332_950151.jpgこのことを知って以来、映写技師を尊敬し、時には叱咤激励するようになった慎ましくも無責任な観客の一人の僕ですが、小柄な女の子の友人が「私、アルバイトで映写してるの」なんていうのを聞いて度肝を抜かれたことがあります。何となくフィリップ・ノワレ扮するアルフレードみたいなおっさんが、機械油にまみれたランニング・シャツ姿で悪戦苦闘している姿を思い描いていたからです。もちろんあれは50年位前の話で、今はそんなんじゃありません。巨大なリール1巻で済んじゃうんですね。スイッチ・ポンです(そうじゃない技師さん、ごめんなさい、無知のタワゴトとお許し頂きたい)。リールさえない映写機もあります。映写機の後方に巨大な円盤が水平に回っていて、その上を中心軸無しにフィルムが回っているのです。ちょっと説明しにくいですね。興味ある方はボローニャならODEONという映画館でその様子が見れますし、トリノの映画博物館でも実際稼動しているそれを見ることができます。こうなるとフィルムの交換はない訳ですからほとんどほったらかしで良さそうな気がしますが、それは新しいフィルムがやってくる最新の機材の揃った映画館での話であって、実際のところ僕が嬉々として行くような映画館では依然、フィルムと映写機と技師の格闘が続いているわけです。巻を替えるタイミング(これはやってみないと判らない気がします。想像がつかない。)、替えるたびにピントをチェックして、スクリーンをにらみ続けながら次の巻の用意と映写後のフィルムを巻き直して、悪ガキTotoの相手をして・・・。タフな仕事です。

この次に鑑賞中にキューが見えたときは、2秒スクリーンから目を離して映写室を振り返り、たまにはその中で奮闘しているであろう映写技師たちと健気に回っているリールを労ってあげてください。その代わり、サボってたら容赦なくツッコミましょう。映写は大変なんだという事情はわかりましたが、その上で、それを何とかすること、つまりリールは映写を円滑にすることを、映写技師はそのためのあれやこれやを求められているのです。
 
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e0017332_9512812.jpgリールは実はなかなか面白いということだけ言いたかったのに、そのリールを中心にダラダラ書いてしまいました。ですが、ダラダラ書けるということからも判るように映画とリールは切り離せるものではなく、映画史の証人、「映画史と共にあったリール」と言っても過言ではないことは何となくわかってきたようです。映画史の材料としてのリールも面白いですが、普段あまり人の目に触れることはないこのリール、もし見かけたときはじっくり眺めてみてください。よくよく見ると実はなかなかかわいくて、支えの部分(円盤面)の模様がすごく多様です。その円盤状の幾何学模様それだけでも十分楽しめて、だからこそ飾りとしてもなかなか冴えているわけで、映画館の待合室やチケットカウンターなどではとても良い雰囲気を出すのです。模様が素敵な金色のリールに赤いリーダー(巻いたフィルムの保護用フィルム)で飾りをすれば、あっという間にリールがリースになります。ほしくなったでしょう?ネット・オークションなどで時々見かけますが、中古でも(中古の味があるからこそ?)、結構値が張りますのでまだ手を出したことはありません。

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コラムの中で触れた『1900年』についても少し書こうとも思ってましたが、思いの外長くなったので場を改めまして投稿いたします。あ、これを出し惜しみと言うんですね。悪しからず。
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by kantacantalavita | 2007-01-27 07:40 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(0)