KANTA CANTA LA VITA

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2007年 06月 30日

Cinema Ritrovato(チネマ・リトロヴァート、ふたたび見出された映画)

明日から、Cinema Ritrovatoが始まります。街中にも心なしか観光客っぽくない人がちらほら。世界中から映画愛好家が集まるんです。

今日、改めてプログラムを見直して、一言、「無理だ」。どうしても見れない作品が山ほどありすぎて、結局、去年と同様、「なんでもいいや」なんて言ってしまいそうです。明日のオープニング上映は、イタリア留学の発見のひとつ、マチステ物です。

ああ、その前にやらなきゃいけないことが、あれやこれやとまだ残ってる。

頑張って楽しみます。
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by kantacantalavita | 2007-06-30 06:20 | 親愛なる日記 | Comments(0)
2007年 06月 28日

ヴィットリオ・デ・セータ(Vittorio De Seta)

いつものODC(大阪ドーナッツ・クラブ)で、イタリアの映画監督ヴィットリオ・デ・セータをお宝アーティストとして紹介しております。ブログで書く機会を失っていたのでちょうど良かったです。山形とかで上映したいなあ。
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by kantacantalavita | 2007-06-28 03:57 | 追加・更新・変更・リンク | Comments(0)
2007年 06月 26日

月間観た映画リスト2007年6月giugno

2007年6月に観た映画です。(2007年6月26日現在)

「コメントcomment」では、感想やらメモやらを観た作品ごとにまとめて記しております。多くは単語レベルでの雑記ですが、個人的な関心ごとという点から、使われている技術と物語の関係、さらには物質としてのフィルムへの言及を話題の主としつつ、その都合上物語の結末などにも触れる場合があります。それを理解いただいたうえで、更なるコメントなど寄せていただけましたら幸いです。

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以下、"原題", 『(あれば)邦題』, 監督, 製作年, 製作国, 上映時間

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"Il vento fa il suo giro", Giorgio Diritti, 2005, Italia, 110min

"I pugni in tasca", 『ポケットの中の握り拳』, Marco Bellocchio, 1965, Italia, 110min

"City Lights", 『街の灯り』, Charles Chaplin, 1931, USA, 81min

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by kantacantalavita | 2007-06-26 19:07 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(3)
2007年 06月 26日

劇場で映画を。

e0017332_939687.jpg劇場で、チャップリンの『街の灯』(City Lights, Charles Chaplin, 1931)を見てきました。劇場と言っても映画館ではなくて、いわゆる本当の劇場、ボローニャ市立劇場(Teatro comunale di Bologna)です。今回の留学を通じて初めての劇場です。あるいは生涯最後の劇場かも知れません、というのはやや大げさだとしても、この先そう数多く経験することではないように思われます。

いわゆる良い席は他にもっとあったにもかかわらず、僕は一番前の席を予約しました。スクリーンにできるだけ近く、という思いもありましたが、今回はいつものそれとはちょっと違います。なぜなら今回の上映は、市立劇場のオーケストラによる演奏がついていたからです。

そんなわけで、僕の座る位置から1mくらいのところで、指揮者が指揮棒を振るうという、長い映画経験の中でも稀有な体験をしました。オーケストラ・ピット(通称オケピ)は目の前です。作品の鑑賞だけについて語るのであれば、あまり良い席とは言えませんが、「映画そのもの」、イタリア語で言う"cinema"を楽しむ傾向にある僕にとっては特等席でした。もちろん、作品自体がとても良かったこと、劇場で映画を見るという経験を存分に楽しんだことは言うまでもありません。

e0017332_9482285.jpg市立劇場では、今回の『街の灯り』の他に、『キッド』、『モダン・タイムス』などが上映されますが、ちょうど復元映画祭と重なります(映画祭の一環でもあります)ので、恐らく今回が、最後の劇場鑑賞になることでしょう。いやらしい言い方ですが、僕には映画館がお似合いです。劇場はあまりにきらびやかで、その実スクリーン横の電灯が点きっぱなしで真っ暗ではなかったのですが、僕はやっぱり映画館の暗闇が好きです。まあどうでもいいことですか。

きっとああいうのは、僕みたいなタイプの人間はたまに行くから楽しいんでしょう。それくらいで良いです。過剰は禁物です。
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by kantacantalavita | 2007-06-26 09:39 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(0)
2007年 06月 25日

外部連載コラム裏話その9

e0017332_1037988.jpg先ほど、外部連載コラム『シネマテークにしねまっていこ』第15回を脱稿しました。今回は、いよいよ今週末に迫った復元映画祭の概要です。概要であり、今回の映画祭の特集の簡単な説明の予定だったのですが、まったく簡単でなくなってしまって、正直慌ててます。概要の時点で、中身が濃すぎる印象をどっしりと持ってしまいました。タフな8日間になることは間違いありません。

コラムの原稿にも書きましたが、このブログで「世界一早い日本語による映画祭報告」を毎日お伝えする予定でいます。色んなことを考えると、映画祭が終わってから書くよりは、何かとその方が僕にとっても都合がよいのです。大変な作業になることは、火を見るよりも明らかですし、いったい誰がそんなもの読むんだという若干の恐れもありますが、何より僕自身が楽しんで映画祭に参加し、その報告を楽しんでできたら良いと思っています。

  *

裏でもなんでもないですが、今回の投稿について一言だけ。

「復元映画祭」と繰り返し言ってますが、場所を代えて僕は「修復映画祭」と言ったこともありますし、イタリアの仲間には当然「チネマ・リトロヴァート」と言っています。イマイチ日本語での呼び名がはっきりしないのは、この、"ritrovato"にいろんな意味があるからで、そのことはコラムの中でも書いていますが、そのひとつに「再発見」という言葉を僕は使いました。映画祭のHPの解説を訳して、「認知されていない作品、誤って認知されている作品、再発見された作品、復元された作品」と、コラムでは記しているはずです。

「再発見」。再び発見することです。イタリア語では"riscoperta"だったはずです。日本語で「もう一度見出す」、なんても言えば、まさにこれが"ritrovare"という動詞("ritrovato"はその過去分詞)の意味です。だから、何となく今になって「再発見映画祭」と呼ぼうかなあなどとも考えていますが、それは別として、再発見ってなんでしょう。

  *

作品や監督や時代の再評価、傷んでいたフィルムの復元版の公開、そういうことと一緒に、紛れもない「再発見」が、映画史ではしばしば起こります。

現在、世に残っている無声映画は、総制作数のほんのわずかでしかありません。失われた量は80パーセントとも90パーセントとも言います。実際の数字ははっきりしませんが、いずれにせよ、もうこれは、どちらかと言えば「ほとんど残っていない」と言った方が良さそうなほどだと思います。山中貞雄の映画作品が、トーキーを含めても26本中3本しか今のところ現存しないのは有名な話です(現存するのはトーキーだけです)。

今僕は、「今のところ」という言葉を使いました。そうなんです。この先どこかから、失われたはずのフィルムがひょっこり出てくる事だって十分ありえるのです。コレクターの所蔵に含まれていたり、どこかの倉庫に眠っていたり、100パーセント存在しないとは言い切れない余白が、残されているのです。そして、何らかのきっかけで見つかった場合に、「再発見」という言葉が使われるのです。

その意味での再発見の他に、日本語でも「再評価」の意味で「再発見」という言葉は使われますし、この場合もこの映画祭ではニュー・プリントのフィルムでの上映が多いです。映画の復元が複製という意味での再プリントを元にしているという意味で、どうもやっぱり"Cinema ritrovato"は「再発見映画祭」とするのが妥当のような気はするのですが、なんとなく語呂が悪い。それでなんとなく、今は「修復」という言葉より「復元」の方がフィルムに関しては用語として適切なような気がしているので(その辺は、まだ勉強中です)、結局、「復元映画祭」という呼び名に落ち着いたわけです。少なくとも、片仮名で「チネマ・リトロヴァート」なんて言うよりは良いでしょう。

  *

フィルムに限らず、新しいことよりも「再発見」を好む傾向が僕にはあります。チンクエチェントが好きなのもその現われのひとつでしょう。映画についても、同じ作品を繰り返し見るのが好きなのは、そのつど発見があるからです。新しいことではありません、いつも同じ作品なのですから。そのものに対する自分の接し方が変わる。再評価であり、再発見なのです。好きか嫌いかではなく、そういう傾向が僕にはあって、傾向の中に身を置いているととてもリラックスできる。居心地が良い。それが好きです。

今回の映画祭に関しては、例えそれが映画史上の再発見であっても、僕にとっては厳然たる新発見であることが多くて、そういう時とてもエネルギーを使います。映画祭の方針はとても居心地が良いし好きなのに、その実、学ぶことが多すぎて、8日間が過ぎた後ではくたくたになっているはずです。まあ、たまにはそういうのも良いでしょう。

報告をお楽しみに。
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by kantacantalavita | 2007-06-25 09:53 | 親愛なる日記 | Comments(0)
2007年 06月 24日

500のある風景(その8)

e0017332_19421142.jpgもう来月には、イタリアのあちこちで新型チンクエチェントを目にすることになるのですね。新型miniも、新型フォルクス・ワーゲンも、おおむね「新型」に興味がないのは、根本的に「車好き」、「運転好き」ではないからでしょう。あくまで、本来のチンクエチェントが好きなのです。


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by kantacantalavita | 2007-06-24 19:47 | 日々の写真 | Comments(0)
2007年 06月 23日

頼むぜ、フランス。イタリアも頑張ってるんだから。(ボン・ジョルノがボン・ジョルノな国の郵便局閑話)

e0017332_18563757.jpgFIFAのランクじゃありません、かれこれ2週間ほど前にアマゾンで注文したDVDが届かないのです。『KANTA CANTA LA VITA』です。

世界で唯一入手可能な『カビリア』のDVDを、最も近いと思っていたフランスに注文したのですが、それが仇となったのでしょうか。発送は6月8日、その時の確認メールには、「7~15日でお届けにあがります」とあったと記憶しています。今日が15日目なのです。まさか隣国フランスからの荷物がこんなに時間を要するとは、思ってもみませんでした。月曜日には受け取りたいものです。

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日本への荷物を郵便局から送りました。事情を良く知らなかったため、窓口のおじさんに尋ねました。

「日本への荷物は、幾らくらい費用がかかりますか? 一番安いので良いんですけど。」
「輸送方法はどうする?」
「船でいいです。」
「重さは?」
「10キロ。」
「・・・。船便で39ユーロだな。」
「飛行機だとどれくらいですか?」
「・・・。90ユーロ。日本まで3、4日で着くよ。」
「着けば良いので、早くない方でお願いします。」
「ノー、ノー。航空便は、早くて、しかも『安全』なんだ。」
「あ、安全??」

船便は安全ではないということでしょうか? 何日くらいで着くか尋ねても正確な数字は出てきません。今回、送ったのは、冬物の服とすぐには使わないだろうと判断した37冊の本。持ってる服の数は、同世代の男性に比して相当の確率で少ない僕の、そして、映画関連の本を未来へのはかない投資として購入した僕の、今後の主戦力がすべて詰まった2箱です。今年の冬、凍えて暮らしても良いです。凍えても良いですから、お願いです、いつかは届いて。

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幸運にも(!?)、今のところイタリアからの郵便(手紙や葉書)はほとんど届いているようです。ですが、届かなかったという噂も絶えません。よりによって、もっとも大事なものが着かない、なんてことがブログのネタにならないことを、今はもはや祈るのみです。

あああ、日本に帰ってすぐ使うようなものが、まだ手元に残っています。こいつらは、航空便という旅客並みの扱いをしないといけないのかと思うと、気が重いです。

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子供の頃、切手の収集をしたことがあります。それが再燃したわけではありませんが、荷物を出し終え、一仕事を終えた気分で余裕ができた僕の目に、イタリアの記念切手が目に留まりました。印刷技術のあれやこれやはわかりませんが、デザインに優れたものが見て取れます。窓口のおばさんに聞きました。「映画関係の記念切手があればほしいんですけど」。おばさん、巨体を揺らし、しぶしぶ分厚いファイルと取り出します。

「映画ねえ・・・、確かあった気がするけど・・・、あ、あった。ほら。」

e0017332_1854060.jpg息を飲む僕。デ・シーカとザヴァッティーニの切手でした。正確には、『ウンベルトD』と『ミラノの奇跡』の切手です。ウンベルトが愛犬フライクを抱き上げるシーンと、ザヴァッティーニの名文句「『ボン・ジョルノ』が本当の意味で『ボン・ジョルノ』である国へ Verso un regno dove buongiorno vuol dire veramente buongiorno」。おいおい。完璧じゃないか、今日という1日。まさかここが、「ボン・ジョルノ」が本当に「ボン・ジョルノ(良い1日を!)」を意味する国じゃないのか?

こうなると僕はどうなるか。調子に乗ります。

「あ、じゃあ、このセットと、同じセットのシートをひと組、『僕用』にください。それから、他の切手も見ていいですか?」 

作り笑いが曇るおばさんの顔。わかってます、面倒な仕事なんです。いちいち箱から取り出して、1枚切手を取って、残りを箱に戻して、表に枚数を記して、料金を計算する。どう考えても、普段の彼女の仕事との比較で、イレギュラーです。しかし、ここで引き下がるわけには僕も行きません。ありとあらゆる愛想を振りまいて、おばさんの機嫌を取る。事実、それが功を奏してか、おばさん機嫌を回復し、おしゃべりでしばしその手が止まるほど。

「申し訳ないとは思うんですよ、シニョーラ。こんな厄介な客、なかなかいないでしょ?」
「まあね、でも良いのよ。あんた、いい子だから。あとどれくらいほしいの?」
「そうですねえ、あと5枚にします。」
「O.K. いいわよ。」
「でもね、シニョーラ。これは僕が悪いんじゃないんです、責任はあなたたちにあるんですよ。だってこんなに素敵な切手を作るんだから。」
「まあ、この子ったら。」

そんなこんなで、1時間くらいかけて(彼女は物販のレジ担当なので、僕以外の客の相手もしなければならない)、20枚ほどの記念切手を選びました。会計を済ませ、おばさんに挨拶をします。

「ありがとう、シニョーラ。また来ます。ボン・ジョルノ。」
「うん、またいらっしゃい。あなたにもボン・ジョルノ。」

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受け取りは知らん、とりあえずは荷物出しに成功し、偶然の出会いとも言える切手に遭遇し、少なからぬ余計な買い物をして、ずいぶん満足していました。その満足具合は、郵便局を出たその足でバールに向かい、ビールを飲んだほどでした。

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ボン・ジュールの国はどうなったのか? ボン・ジュールの国からボン・ジョルノの国への越境はどうなったのか? なんとなく、ネタになりそうな予感はあるのです。
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by kantacantalavita | 2007-06-23 18:01 | 親愛なる日記 | Comments(2)
2007年 06月 20日

シネマテークにしねまっていこ(特別編)

いつものODC(イタリアお宝アーティスト発掘集団大阪ドーナッツクラブ)のHPに、特別寄稿として「チネチッタにちねちったった」が掲載されました。同ページの左側、「おっとこ前バナー」をクリックしてください。
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by kantacantalavita | 2007-06-20 05:28 | 追加・更新・変更・リンク | Comments(0)
2007年 06月 17日

500のある風景(その7)

前回の投稿で、イタリアのクラシック・カー・レースMille Migliaを見事に見逃したことを嘆きましたが、何の幸運か、先日偶然訪れたモンテヴェーリオMonteveglioというボローニャの郊外の街で、同様のレースに遭遇しました。街に勢ぞろいしていることを通りすがりで聞き、しめたとばかりに駐車された美しい車を眺め、日が沈んでから山道の入り口でスタートの光景を見ていました。もちろんチンクエチェントは参加していませんが、恐らくどこかに、「チンクエチェントのレース」なんてものも存在するんだろうなあと勝手に考えた次第です。

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by kantacantalavita | 2007-06-17 07:30 | 日々の写真 | Comments(2)
2007年 06月 16日

外部連載コラム裏話その8

最近、特に『シネマテークにしねまっていこ』の裏話を書いていなかったから、以下でそれに代えます。

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「2007年度最後のチネテカ上映に学ぶ、あるいは拳はまだ握られている」

イタリアは、6月を年度末としている。大学の新学期が始まるのは、夏休みが終わった11月からだと法律で決まってるらしいが、それでも9月末から授業が始まったりして、新年度の落ち着かなさがある上に流動的で、何かと忙しい。12月に入るとクリスマスと年末年始休暇が迫り、また街中がそわそわしてくる。当たり前だけれど、どこか浮ついている。年明けの1月は休みボケのような、地に足が付いていない感じがするものだけれど、それも2月になればようやく静けさを取り戻し、3月である。驚いたことに3月は日本の年度末で、いくつかある日本人観光客が増える季節のひとつだ。イタリアで好き勝手に暮らしているにもかかわらず、そういうものに影響を受けフラフラしている間に、世間ではカーニバルが終わり、復活祭の休暇に入り、4月が終わる。4月5月6月と必ず国民の休日がある月が続き、6月も中盤を過ぎると、もう気分は夏休みである。1年が終わってしまうのだ。イタリアを変える必要があるとするならば、この年度制度をまずどうにかした方が良いと僕は思うのだけれども、変わらないところを見るとイタリア人はこれで大いに満足しているらしい。

きちんと仕事をする人もいるのに、イタリアでは1年中遊んでいるような誤解を招きかねないことを、なぜ書いたかというと、今月は年度末、第二の我が家であるボローニャ市立シネマテーク(誰が呼んだかチネテカ)の通常上映が終わったのだ。さびしいのである。

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通常上映とここで僕が言うのは、何も帰国前にもう二度とチネテカに入れないわけではないからで、今月の最終日からはボローニャの夏を飾るCinema Ritrovato(復元映画祭)も始まるし、その後もいくつかの上映がまだあるからだ。これからの2週間は夏の映画祭や特別上映に備えた準備期間なのだろう、時を同じくして、街の中心マッジョーレ広場に、野外上映用のスクリーンの建設が始まり、チネテカでの上映がない分、街の中心からはいくらか離れたArena Puccini(アレーナ・プッチーニという公園みたいな所)での有料野外上映も、チネテカの通常上映修了と入れ替わりで昨夜から行なわれている。いくつかの映画館は夏休み休暇に入ってしまったけど、もちろん営業している映画館もある。映画が消えることのないこの街にあって、夏休みだからと言って映画が見れないと嘆くことはないのだけれど、何が悲しいと言って、やはり、次にチネテカの通常プログラムが再開される時、僕はもうこの街にいないことだ。

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e0017332_2011163.jpg最終日の最終上映には、もちろん駆けつけた。マルコ・ベッロッキオ監督『ポケットの中の握り拳』(I pugni in tasca, Marco Bellocchio, 1965)。昨年の5月24日にも同じチネテカ、マストロヤンニ上映室で鑑賞した作品だ。あれから1年以上が過ぎてしまったことに閉口したことは言うまでもないが、さらに驚いたのは、あの時フィルム上映だった同作品が、今回はテレビからの録画ビデオの再生だったことである。

最終上映の映写室の様子を目に焼き付けようと、いつもと同じ前から3列目、真ん中の1個右の席に腰を下ろし、キャビンに目をやる。おいおい、プロジェクターの光源が点灯しているじゃないか、何の間違いだ。前の上映の『殺人捜査官』(Indagine su un cittadino al di sopra di ogni sospetto, Elio Petri, 1969)はフィルム上映だったはずだ。気分が萎える。しかし待て。奇跡的な思考の転換。映画作品を見ることが重要なのだろう。フィルムでしか見ないとか、スクリーンじゃなきゃ映画じゃないとか、そういう原理主義的な考え方は、この際、捨てろ。

チネテカに自転車で20分という所に住み始めて1年以上が過ぎ、名実ともに第二の我が家としてチネテカに通い詰め、フィルムで映画が見れることを当然と思ってしまっていることは、あと数ヶ月もしたら日本での暮らしがまた始まることを思えば、恐ろしい錯覚である。多くを教えてくれたチネテカの、最後のレッスンだったのかも知れない。

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「チネテカからの最後のレッスン」、そう思ってしかるべき理由はある。

何よりもまず、映画が100%フィルムではないことを再確認した。前回、すなわち最終上映の前に最後に見た映画も、デジタル撮影で、上映用になんとかフィルムに変換された作品『風には風の路がある(役は筆者)』(Il vento fa il suo giro, Giorgio Diritti, 2005)だった。世にはデジタル映画館というものもある。あるいは今後さらに増えるかもしれない(ボローニャにもあるし、山形にもある)。

次いで、映画館での映画鑑賞は、作品を他の誰かと共有することであること。そこはあくまで観客すべての場であって、なにも僕一人の秘密の隠れ家ではないのだ。相撲を見たり、野球を観戦するのと一緒で、その場の雰囲気も含めての「映画」なのだ。それがイヤなら、暗い我が家のパソコンの前に座って小さな画面を睨みつけるしかない。ホーム・シアターなるものが普及するのも良くわかる。僕もいずれはほしい。しかし、座布団投げをする客を楽しむように、作品に対してブツブツいう観客を楽しみ、質の悪いプレーにブーイングする客を楽しむように、不出来な上映にブーイングする観客を楽しもうとするのは、寛容すぎるだろうか。映画館に集う人々には色んな人がいて、生涯を映画に捧げたかのようなマニアと、映画館をエロの場としか考えていないカップルが、ひとつの空間を共有し、作品を通じて若かりし頃を追体験するおじいちゃんと、そのおじいちゃんの話を上映中に聞いて追々体験する孫が隣り合う席に座る、そういう場所なのだ。

実のところ最終上映も、作品の上映とそれを取り囲む環境は、これまで体験した中でも最悪の部類に入った。時間が来ても始まらない。よりによってテレビ録画の映像。始まったと思ったら音声がでない(「音!」と叫ぶ客たち)。場内の灯りがつき、巻き戻しをして再上映するも今度は一緒に録画したとしか思えないインテリぶったおじさんの解説が始まる(場内爆笑)。気を取り直して再開された上映中に画面の調節が始まる。突然画面に現れる「消去しますか?」の文字(場内大爆笑)。登場人物の台詞に「ぎゃはは」と笑い続けるひとりの若者。足癖の悪い、後ろの席の青年。それでも僕が席を立たなかったのは、何より作品が素晴らしかったからだ。

僕をここまで寛容にしたきっかけはイタロ・カルヴィーノの1953年の文章の一節で、その寛容さが求められた場所が、チネテカだった。完璧な上映環境を求める観客は、なかなかここには馴染まないかも知れない。屋外の救急車のサイレンが聞える上映室は、イタリアの救急車のそれの規格外のやかましさを割り引いても、あまり体験したことがない。THXで知られるジョージ・ルーカス(George Lucas)などは、気が狂ってしまうかも知れない。フィルムが燃えるのを見たのもこの上映室だったし、女優に対する恋心が燃えたのもこの上映室だった。あまりの映像の美しさに声を失い、フィルムのあまりの劣化具合に声を失った。携帯をチカチカさせてる女の子に「出て行ってくれ」と言ったのもこの上映室で、足をごそごそし過ぎて注意されたのもこの上映室だ。ベルナルド・ベルトルッチが噛んだガムがあそこについているのもチネテカで、このチネテカの代表のひとりはその弟ジュゼッペだ。ここには、「映画のすべて」があった。

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映画フィルムを劣化させないためには、ある程度定期的に上映することが求められると言う。リールやコアに巻かれたままでは、巻き癖がつくし、外気に触れさせることも重要なんだとか。

僕のチネテカでの思い出を劣化させないためにはどうすれば良いのか。おそらく、「ある程度定期的に上映すること」が必要なのだろう。上映室はこのチネテカ。つまり、ある程度定期的にチネテカに通うことができれば、忘れないんじゃないかしらん。フィルムも毎日上映すれば、映写傷ができるだろうし、その分リスクも大きい。僕もこれ以上、毎日のように通い詰めたら思い出をつくるどころか、それだけで充足してしまう。おそらく潮時なのだろう。

ある程度定期的にチネテカに来ることができる人生がどんなものであるかは、今の僕には言うことはできない。人生そのものがまったくもって不透明だからだ。不透明であるという点では、澄み切っている。さっぱり想像もつかない。ただ、どこかで、長年離れた故郷に帰るように、チネテカを訪れることができれば、そのときにこの上映室で映画を見ることができれば、僕の思い出も同じスクリーンに映写できるのではないかと思う。

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『ポケットの中の握り拳』のフィルムは、どうなったのだろうか。なぜ今回がフィルム上映でなかったのかは、なんだかんだと言ったところでやはり気になる。思い返せば、昨年の上映の時も、フィルムの状態はそれほど良くなかったはずだ。この1年で、映写が不可能になるくらいに決定的に傷んでしまったのだろうか。よくわからないことに対する苛立ち。寛容と無関心は違う。フィルムはどこへ行ったのか。フィルムはどこへ行くのか。死ぬことで開かれた、アレッサンドロのポケットの中の握り拳は、僕の心の中でまだ握られたままである。
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by kantacantalavita | 2007-06-16 18:05 | 映画とは何か(cinemaについて) | Comments(0)