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KANTA CANTA LA VITA

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2007年 03月 15日

The good humor man he sees everything like this.

今夜はややロマンチック、『KANTA CANTA LA VITA』です。

日本からの旅行で我が家に滞在していた友人と訪れたフィレンツェで、偶然時を同じくしてフィレンツェに来ていた愚妹その2とその素敵な友人と、以前から約束していたレストランで美味しい食事をしました。一緒に行った友人の友人が料理人をしているお店で、まあ何かの巡り合わせでこうなったんだからと、1組の家族関係、2組の友人関係、3組の初対面という4人での食事だったわけですが、お店と友人の友人である料理人の名は、こちらに来て最も美味しかった料理屋リストにその名をさきほど書き込んだところです。ところが、その店にかなり期待していて、しかもその期待を裏切ってさらに美味しかったところまで考慮しても、これはある種「予定通り」だったのです。

半日のフィレンツェ歩き。日曜日で店が開いていないことを予感しつつそれでもモツのパニーノが食べたくて、しかも数時間後にはきちんとした料理が食べられるのに、どうしても食べたいものなので目当ての店を目指していた折、恐ろしく込み合うサン・ロレンツォ教会付近で僕を名を呼ぶ女の子の声が聞こえます。イタリア語で"Canta!!"(カンタ!!、「歌え」の意)と言ってるんじゃありません。こんなところで見ず知らずの人に歌わせたがる奴はイタリア広しと言えどそう多くないはずですし、なにより「さん」付けでした。間違いありません、去年の夏に数人の仲間と一緒にニースに行ったりしたんですど、その時の仲間の一人で、この春からの就職も決まり、卒業旅行に来ていた大学の後輩です。繰り返しますが、恐ろしい混雑のフィレンツェ、しかも相当な割合で日本人による賑わいで、以前日本に一時帰国した友人が帰国直後の印象として言っていた「会う人全てが知り合いに見える」という感覚の、その「海外出張版」のようなものを体験していた最中、実際に本当の知人に出くわしても不思議ではないなあ(いや、不思議だ)と反語的にその人の多さに圧倒されていたところで、本当に本当の知り合いに会ってしまったわけです。錯覚と予感が交錯し、その上で間違いない事実を突きつけられるとひどく混乱するのは予想に難くなく、一種異常な興奮で束の間の再会を喜び、再々会を約束し逃げるように(その実、そんな僕を見た後輩は「逃げたいんですか?」と二度三度と繰り返す、そうじゃないんだ!)理解できないその場を離れました。

前夜。ローマの知人からの電話。「明日暇ですかね?」「いやあ、暇じゃないんですよ、フィレンツェに行かなくちゃならなくて・・・。」「え?!今フィレンツェにいるんですよ。」「・・・、じゃあ、お会いしましょう。」電脳の世界の知人で、実際の面識のなかった彼女との待ち合わせはジョットの鐘楼の下でした。電脳世界に対する不信感もあってか、彼女とは何とか一度直接会っておきたいと思っていたところの電話。1年とちょっとの間にフィレンツェに来たのはこれが5回目ですが、1回目は滞在時間20分でしたし、2回めは列車の乗り換えでした。前回は先週ですし、今回だって実際の滞在は半日です。にもかかわらずこの時間的にも空間的にも「ピン・ポイント」なこの待ち合わせ。身の回りを取り囲む世界の大きさとそこに犇く理解できなさ加減に比べれば、ジョットの鐘楼だって針みたいなものです。この偶然も当然理解を超えています。

15年来の友人との半日フィレンツェ歩き、思いがけない後輩と再会とその友人2人との初対面、会いたかった人との絶妙なタイミングで初顔合わせとその友人との初対面、久しぶりの妹との再会とその友人との初対面、友人の友人であり直接友達になりたいご機嫌な料理人との初対面、より根本的な、この季節のフィレンツェの人の多さ。実のところ、素敵な夕食を終え、ボローニャ行き最終鈍行列車を目指す頃にはくたくたで、頭は完全に機能停止していました。間違った道順でどうやって駅に着いたのか覚えていないのはほとんど一人で飲んでしまったワインのせいではなかったはずです。

車中、ぐっすり眠る友人を尻目に、僕は斜め前方に座る若いおばあちゃん若いお母さん幼い娘のそっくりさ加減に感動していました。発車前、窓の外の父親とはイタリア語で話していた女の子はおばあちゃんとは聞き慣れない言葉で話をしています。色々なものが理解を超えているその時にあっては、「そういうもんだ」と納得するしかないことを教えてくれます。

The good humor man he sees everything like this._e0017332_1031643.jpg懐かしい友人たち家族恋人が来ては去っていった日々が終りました。あまりの忙しさに、「俺は『橋』みたいなもんさ、誰かがやってきては誰かが去っていく。橋を渡っていることさえ気がつかない、そんな橋さ。」なんてイタリア人の友人に言ったのを覚えています。いやいや橋には橋の喜びがありますし、それはきっと「渡す」ことですし、実のところ僕は橋ではありません。どこかに「俺は架け橋だ!」と吠えたこともありますが、あれだって半分くらいは言葉遊びです。そうじゃなくて僕は橋の下を流れている川です。流されてるんじゃない、流れているんだと。昔、「リバー・ランズ・スルー・イット」という映画がありました。「なんかいろいろあったけど、それでも川はその『いろいろ』の間を流れている」というようなエンディングだったと記憶しています。「ああ、川の流れのように」なんて歌った歌手もいましたね。使い古しなりの真実があるような気がします。どこかにたどり着く反面、それ以外のところにはどうやってもたどり着けない。流されてるんじゃない、流れているんだと言いながら、勾配がなければ流れることもできず、淀んだり、曲がりくねったりします。誰かに汚され誰かに浄化され、分岐してまたくっついて、枯れては現われ、高いところに上らず、それでもどこかを通り過ぎ、いつかどこかにはたどり着く。・・・ん?でその次は水蒸気になって雲になって雨になってまた振り出しに戻るのか。今の暮らしで、行き着くであろう海のこと、雨になって振り出しに戻ることを考えるのは不健康です。とにかく、いろいろあるけど、"The river runs through it"なのです。

あ、川には時々かわった生き物が迷い込みます。たまちゃんとか、なんとかちゃんとか、川にいるはずのないアザラシのような予想だにしない生き物が。フィレンツェからようやくたどり着いたボローニャ駅。いましたよ、KANTACANTALAVITA川にも思いがけないたまちゃんが。バルセロナからボローニャ近郊のフォルリに着いたバスケットボール仲間であり、イタリア語の後輩でもある友人が、家族の待つフィレンツェを目指したその途中のボローニャでとうとう列車を連絡できなくなり、午前零時を過ぎた怪しすぎる駅構内で足止めを喰らってたまちゃんのように比喩的に震えていました。僕がボローニャに暮らしているのは知っていたし、何なら若干アテにしていた様子もありましたが、連絡先も知らず、かといって頼るものも同様の発車待ちの旅人以外になく、朝4時の列車まで待ちぼうけを覚悟していたところに、僕は帰ってきてしまったわけです。リカイデキナイ。「・・・そういう時大人は酒を飲む。」明け方まで酒飲みをして、翌日はそのままの勢いでバスケットボールを一緒にしました。

運命とかあまり考えませんが、こういうこともあるんだなあと感動します。色々な人がやってきた2月中旬から3月中旬、中でも色んな人に会った3月11日でした。来てくれたみんなありがとう、会ったみんな楽しかったよ。

(写真はボローニャのレーノReno川。)

by kantacantalavita | 2007-03-15 01:05 | 親愛なる日記


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