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KANTA CANTA LA VITA

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2007年 04月 13日

名前なまえナマエ。君の君のなーまえ。聞いてみてびっくり。さあ、どうぞ。 (後編)

『KANTA CANTA LA VITA』です。
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去年の今頃、ようやく僕の名前を読んでくれる人ができてきた、という記事を書いたのをすっかり忘れていました。しかも、後編を予定して「前編」と題していたのを。1年が巡って良い機会があったので、後編を書いてみようと思います。
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こういうことはきっと胸の内に大切にしまっておくべきことなのでしょうが、なんせ自分のことに関しては口が軽い、自分のことを喋りたがる傾向がありまして、そんなわけで、このことも書いてしまおうと思います。僕以外の人にはどうでもよくて、僕自身にとっては結構大事なことってあります。
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ローマ。どこかでずいぶん悪く書いてしまった街ではありますが、そこで起きたあるひとつのことは、おそらくずっと忘れられないんじゃないかと思います。なぜなら自分の名前に関わることだからです。
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シルヴァーノ・アゴスティというイタリア人の映画監督がいます。自身で映画を撮りながら、他の監督の作品の製作もしたり、小説を書いたりもしています。持論のひとつに、「映画監督はすべからく自らの映画館を持つべし」というのがある人で、映画人のみならず、小説家は自分の出版社を、画家は自分のギャラリーを持て、と著書の最初のページに書くような人です。実際彼も、自分の映画館と出版社をローマに持っています。彼を発見した友人(シルヴァーノ・アゴスティの存在に最初に気づいた僕らの仲間であるポンデ雅夫、奇しくも例の前編にも登場してます)が、もっときちんと書いてますので、詳しくはそちらを見ていただければわかると思いますが、すごい人です。
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2006年の最初の映画は彼の映画館で鑑賞し、彼がボローニャのチネテカにやってきたときもそのちょっとした講演を聴きにいきました。2007年3月末のローマ滞在の時も、彼の映画館に行って最近のイタリア映画を見てきました。
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シルヴァーノ・アゴスティの映画館アッズッロ・シピオーニCinema Azzurro Scipioniは、バチカンのすぐ側にあり、毎週月曜日はアゴスティ自身が、チケットカウンターに立ちます。客とおしゃべりしながら、映写もします。70才の彼が映画館の中を走り回る様子は、一見の価値があります。僕らも当然、彼がいる月曜を狙って行きました。
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最近、新刊が出版され、ボローニャに来たのもその関連イベントのためだったのですが、どうせ買うならアッズッロ・シピオーニでと思っていましたので、緊張しながらもわずかながら本の購入を通じて彼と接することができました。
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僕が差し出した新刊本をおもむろに開き、穏やかな声で何か言いました。僕は、彼が何を言ったかわからず、友人に尋ねました。「小さい頃のあだ名を聞いてるんだと思うよ。」特にあだ名はありません、「かんた」という名前がそれ自体で特徴的だからかとも思います。「かんたって言います。」彼は開いたページに書かれた題名の下にペンを走らせます。サインをもらおうか、という僕の思惑が見透かされていたかのような出来事です。
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a Kanta
perché si fidi di se stesso
S. Agosti 2007
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訳すのは難しいです。なぜならイタリア語の駄洒落みたいなものが含まれているからです。一気に味気ないものになりますが、それでも訳すとこうなるでしょうか。日本語だと何の言葉遊びかさっぱりわかりません。
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「自分自身を信じるために歌う幹太へ S・アゴスティ 2007年」
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『KANTA CANTA LA VITA』というブログのタイトルにもあるように、イタリア語のcanta(カンタ)は、「歌う」という動詞の三人称単数現在形でもあり、二人称単数の命令形「歌え」でもあります。その辺はこのブログを始めたときに、ちょろっと書いたとおりです。
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こうしてブログを書き始めたのは、書くことによって何かわかることもあるんじゃないか、そういう思いがあったからです。実際の僕は歌手でも何でもないですが、歌うように書けたら素敵です。何より書きながら、書くように歌いながら、歌うように考えながら、僕自身が楽しんでいるのですから、少なからぬ機会にグダグダな文章を綴ってしまいますが、まあいいんです。グダグダな文章なりに何かを歌っているからです。
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そういう思いの元にこのブログをやっている僕に、アゴスティは僕の名前に引っ掛けて「自分を信じるために歌う」と書いてくれたのです。確かに、書くことによって何かを信じようとしていたのかも知れません。こうして書いていなければ、数年後にはイタリアで過ごした時間など信じられなくなっていることだってありえるのです。そういう明日さえ見えぬ今、激動の日々の記録を綴ることによって、それを書いた自分とそこに書かれた自分を信じようとしているとも言えるのです。
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そのメッセージがうれしくて、解釈は色々あるでしょうけど、僕は完全に好意的に理解して、ボローニャに帰ってからもイタリア人の友人に見せたりもしましたが、反応はイマイチです。「へえ、よかったねぇ。」うん、よかったよ、映画の上映中もその本を大事に握りしめていたほどにね。
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もし、イタリアにいて、ローマにいるならば、地下鉄に乗ってオッタヴィアーノOttavianoまで行ってください。月曜日の18時をちょっと過ぎたくらいになれば、自転車に乗ったシルヴァーノ・アゴスティが映画館に現れ、18時上映開始なのに「いやあ、ぎりぎりセーフだな。」なんて言って笑いかけてくれるはずです。

by kantacantalavita | 2007-04-13 07:29 | 親愛なる日記


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