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KANTA CANTA LA VITA

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2007年 06月 16日

外部連載コラム裏話その8

最近、特に『シネマテークにしねまっていこ』の裏話を書いていなかったから、以下でそれに代えます。

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「2007年度最後のチネテカ上映に学ぶ、あるいは拳はまだ握られている」

イタリアは、6月を年度末としている。大学の新学期が始まるのは、夏休みが終わった11月からだと法律で決まってるらしいが、それでも9月末から授業が始まったりして、新年度の落ち着かなさがある上に流動的で、何かと忙しい。12月に入るとクリスマスと年末年始休暇が迫り、また街中がそわそわしてくる。当たり前だけれど、どこか浮ついている。年明けの1月は休みボケのような、地に足が付いていない感じがするものだけれど、それも2月になればようやく静けさを取り戻し、3月である。驚いたことに3月は日本の年度末で、いくつかある日本人観光客が増える季節のひとつだ。イタリアで好き勝手に暮らしているにもかかわらず、そういうものに影響を受けフラフラしている間に、世間ではカーニバルが終わり、復活祭の休暇に入り、4月が終わる。4月5月6月と必ず国民の休日がある月が続き、6月も中盤を過ぎると、もう気分は夏休みである。1年が終わってしまうのだ。イタリアを変える必要があるとするならば、この年度制度をまずどうにかした方が良いと僕は思うのだけれども、変わらないところを見るとイタリア人はこれで大いに満足しているらしい。

きちんと仕事をする人もいるのに、イタリアでは1年中遊んでいるような誤解を招きかねないことを、なぜ書いたかというと、今月は年度末、第二の我が家であるボローニャ市立シネマテーク(誰が呼んだかチネテカ)の通常上映が終わったのだ。さびしいのである。

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通常上映とここで僕が言うのは、何も帰国前にもう二度とチネテカに入れないわけではないからで、今月の最終日からはボローニャの夏を飾るCinema Ritrovato(復元映画祭)も始まるし、その後もいくつかの上映がまだあるからだ。これからの2週間は夏の映画祭や特別上映に備えた準備期間なのだろう、時を同じくして、街の中心マッジョーレ広場に、野外上映用のスクリーンの建設が始まり、チネテカでの上映がない分、街の中心からはいくらか離れたArena Puccini(アレーナ・プッチーニという公園みたいな所)での有料野外上映も、チネテカの通常上映修了と入れ替わりで昨夜から行なわれている。いくつかの映画館は夏休み休暇に入ってしまったけど、もちろん営業している映画館もある。映画が消えることのないこの街にあって、夏休みだからと言って映画が見れないと嘆くことはないのだけれど、何が悲しいと言って、やはり、次にチネテカの通常プログラムが再開される時、僕はもうこの街にいないことだ。

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外部連載コラム裏話その8_e0017332_2011163.jpg最終日の最終上映には、もちろん駆けつけた。マルコ・ベッロッキオ監督『ポケットの中の握り拳』(I pugni in tasca, Marco Bellocchio, 1965)。昨年の5月24日にも同じチネテカ、マストロヤンニ上映室で鑑賞した作品だ。あれから1年以上が過ぎてしまったことに閉口したことは言うまでもないが、さらに驚いたのは、あの時フィルム上映だった同作品が、今回はテレビからの録画ビデオの再生だったことである。

最終上映の映写室の様子を目に焼き付けようと、いつもと同じ前から3列目、真ん中の1個右の席に腰を下ろし、キャビンに目をやる。おいおい、プロジェクターの光源が点灯しているじゃないか、何の間違いだ。前の上映の『殺人捜査官』(Indagine su un cittadino al di sopra di ogni sospetto, Elio Petri, 1969)はフィルム上映だったはずだ。気分が萎える。しかし待て。奇跡的な思考の転換。映画作品を見ることが重要なのだろう。フィルムでしか見ないとか、スクリーンじゃなきゃ映画じゃないとか、そういう原理主義的な考え方は、この際、捨てろ。

チネテカに自転車で20分という所に住み始めて1年以上が過ぎ、名実ともに第二の我が家としてチネテカに通い詰め、フィルムで映画が見れることを当然と思ってしまっていることは、あと数ヶ月もしたら日本での暮らしがまた始まることを思えば、恐ろしい錯覚である。多くを教えてくれたチネテカの、最後のレッスンだったのかも知れない。

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「チネテカからの最後のレッスン」、そう思ってしかるべき理由はある。

何よりもまず、映画が100%フィルムではないことを再確認した。前回、すなわち最終上映の前に最後に見た映画も、デジタル撮影で、上映用になんとかフィルムに変換された作品『風には風の路がある(役は筆者)』(Il vento fa il suo giro, Giorgio Diritti, 2005)だった。世にはデジタル映画館というものもある。あるいは今後さらに増えるかもしれない(ボローニャにもあるし、山形にもある)。

次いで、映画館での映画鑑賞は、作品を他の誰かと共有することであること。そこはあくまで観客すべての場であって、なにも僕一人の秘密の隠れ家ではないのだ。相撲を見たり、野球を観戦するのと一緒で、その場の雰囲気も含めての「映画」なのだ。それがイヤなら、暗い我が家のパソコンの前に座って小さな画面を睨みつけるしかない。ホーム・シアターなるものが普及するのも良くわかる。僕もいずれはほしい。しかし、座布団投げをする客を楽しむように、作品に対してブツブツいう観客を楽しみ、質の悪いプレーにブーイングする客を楽しむように、不出来な上映にブーイングする観客を楽しもうとするのは、寛容すぎるだろうか。映画館に集う人々には色んな人がいて、生涯を映画に捧げたかのようなマニアと、映画館をエロの場としか考えていないカップルが、ひとつの空間を共有し、作品を通じて若かりし頃を追体験するおじいちゃんと、そのおじいちゃんの話を上映中に聞いて追々体験する孫が隣り合う席に座る、そういう場所なのだ。

実のところ最終上映も、作品の上映とそれを取り囲む環境は、これまで体験した中でも最悪の部類に入った。時間が来ても始まらない。よりによってテレビ録画の映像。始まったと思ったら音声がでない(「音!」と叫ぶ客たち)。場内の灯りがつき、巻き戻しをして再上映するも今度は一緒に録画したとしか思えないインテリぶったおじさんの解説が始まる(場内爆笑)。気を取り直して再開された上映中に画面の調節が始まる。突然画面に現れる「消去しますか?」の文字(場内大爆笑)。登場人物の台詞に「ぎゃはは」と笑い続けるひとりの若者。足癖の悪い、後ろの席の青年。それでも僕が席を立たなかったのは、何より作品が素晴らしかったからだ。

僕をここまで寛容にしたきっかけはイタロ・カルヴィーノの1953年の文章の一節で、その寛容さが求められた場所が、チネテカだった。完璧な上映環境を求める観客は、なかなかここには馴染まないかも知れない。屋外の救急車のサイレンが聞える上映室は、イタリアの救急車のそれの規格外のやかましさを割り引いても、あまり体験したことがない。THXで知られるジョージ・ルーカス(George Lucas)などは、気が狂ってしまうかも知れない。フィルムが燃えるのを見たのもこの上映室だったし、女優に対する恋心が燃えたのもこの上映室だった。あまりの映像の美しさに声を失い、フィルムのあまりの劣化具合に声を失った。携帯をチカチカさせてる女の子に「出て行ってくれ」と言ったのもこの上映室で、足をごそごそし過ぎて注意されたのもこの上映室だ。ベルナルド・ベルトルッチが噛んだガムがあそこについているのもチネテカで、このチネテカの代表のひとりはその弟ジュゼッペだ。ここには、「映画のすべて」があった。

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映画フィルムを劣化させないためには、ある程度定期的に上映することが求められると言う。リールやコアに巻かれたままでは、巻き癖がつくし、外気に触れさせることも重要なんだとか。

僕のチネテカでの思い出を劣化させないためにはどうすれば良いのか。おそらく、「ある程度定期的に上映すること」が必要なのだろう。上映室はこのチネテカ。つまり、ある程度定期的にチネテカに通うことができれば、忘れないんじゃないかしらん。フィルムも毎日上映すれば、映写傷ができるだろうし、その分リスクも大きい。僕もこれ以上、毎日のように通い詰めたら思い出をつくるどころか、それだけで充足してしまう。おそらく潮時なのだろう。

ある程度定期的にチネテカに来ることができる人生がどんなものであるかは、今の僕には言うことはできない。人生そのものがまったくもって不透明だからだ。不透明であるという点では、澄み切っている。さっぱり想像もつかない。ただ、どこかで、長年離れた故郷に帰るように、チネテカを訪れることができれば、そのときにこの上映室で映画を見ることができれば、僕の思い出も同じスクリーンに映写できるのではないかと思う。

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『ポケットの中の握り拳』のフィルムは、どうなったのだろうか。なぜ今回がフィルム上映でなかったのかは、なんだかんだと言ったところでやはり気になる。思い返せば、昨年の上映の時も、フィルムの状態はそれほど良くなかったはずだ。この1年で、映写が不可能になるくらいに決定的に傷んでしまったのだろうか。よくわからないことに対する苛立ち。寛容と無関心は違う。フィルムはどこへ行ったのか。フィルムはどこへ行くのか。死ぬことで開かれた、アレッサンドロのポケットの中の握り拳は、僕の心の中でまだ握られたままである。

by kantacantalavita | 2007-06-16 18:05 | 映画とは何か(cinemaについて)


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