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カテゴリ:映画とは何か(cinemaについて)( 29 )


2007年 01月 24日

Future Film Festival 2007 (後記)

Future Film Festival 2007 (後記)_e0017332_8393488.jpg今週の日曜日でボローニャの冬を飾る映画祭フューチャー・フィルム・フェスティバルFuture Film Festival(以下、FFF)が閉幕しました。細々の都合(あくまでボローニャの中心はチネテカなのです、僕にとって)で多くのプログラムには参加できませんでしたが、参加したプログラムはどれも大いに楽しみました。

せっかくフリー・パスを購入したのに、実際に鑑賞したのは、中国アニメーション「上海美術電影」特集、「白雪姫はもうすぐ70歳」特集、長編アニメーション『銀色の髪のアギト』、実写版『時をかける少女』だけで、劇場版アニメーション『時をかける少女』は実写版の上映開始前の周りの人間の評判も良かったことですし、ぜひ観ておくべきだった気はしていますが、この評判に乗じて一般公開されることを祈りつつイタリア語吹き替えに備えます。

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さて、遅まきながらFFFというイベント自体をもう少し見てみます。閉幕後になってしまったのは悪しからず、これから益々発展するであろうFFFの「フューチャー」への期待を込めているから後でも良いのです。

フューチャー・フィルム・フェスティバルは1999年に初めて開催され、来年はいよいよ10周年を迎えます。会場は、現在はスクリーン4つを擁する中央駅近くのカピトルCapitolが使われていますが、それまでは初回は駅から遠い旧リュミエールCinema Lumière、第2回は同リュミエールと同じく駅から遠いチネマ・ノザデッラCinema Nosadella、2002年は同ノザデッラとチネマ・アルレッキーノCinema Arlecchino、2005年はカピトルと今は亡きエンバシーEmbasseyという具合に会場選択の紆余曲折が続き、実際現在のような開催になったのは昨年からのようです。

映画祭のHPを見てみますと、まず初めに「開催以来フューチャー・フィルム・フェスティバルは、アニメーションと特殊撮影を特集するイタリアで最も重要なイベント」であるとの紹介文があります。日本の作品も多く上映されますが、映画祭の規模と歴史を考えれば、イベントとしては「本国日本」に先んじている感があります。あるいは僕が知らないだけかも知れませんが、少なくとも世界中古今のアニメーションを集めた10年も続いている特集上映は日本では聞いたことがありません。(もしあれば教えてください。)

毎年、様々な映画人を招待して座談会やインタビューなどが企画されます。日本に比べ「映画関係者が観客に近い」と言われるイタリアです(このブログでも何度か紹介しました)が、そうした文化的底力、映画土壌の豊穣は各種映画祭を始め一般館での上映、シネマテークでの特集上映などでいかんなく発揮され、我々観る者を大いに刺激するばかりでなく、より多くの人間を映画界へと誘い、結果その豊かさは循環し映画産業自体の活性化に結びついていると思います。

古い時代の映画研究に携わるものとしてこの映画祭を評価する(勝手に喜んでいるだけですけど)のは、その名の通り映画の未来と新しい技術に着目したイベントであるFFFが、同時にテレビ・ゲームやインターネットを取り上げるに留まらず、作家や制作会社の回顧上映や過去の特撮技術の特集などの企画により過去の映画人たちの業績をも取り上げている点です。昨年のイジー・トルンカ特集、今年の中国アニメーション特集などがそれで、歴史と最新技術(あるいは未来)の比較によって(比べずとも同じ期間内に観るだけでも)作品の良し悪しでは計れないものが見えてくるんだと思います。今年組まれた中国の戦後以降のアニメーション特集が、日本のアニメーションで育った僕にとって、生まれる以前あるい同時代の作品であるにもかかわらず「新しい発見」であったことが最たる例だと思います。知ることが学ぶことであるとすれば、これらのレトロスペクティブはこの上ない垂涎の的なのです。第1回開催で宮崎駿の初期作品(当時にして20年前の作品)を、第4回開催で手塚治虫の60年代70年代を中心とする作品、2005年には20年代30年代の日本のアニメーションが上映されていることも、現在のアニメーション産業における日本の占める位置、さらにはイタリアにおけるアニメーション文化への日本の貢献度を考慮に入れれば、この映画祭の方向付けとして明確だったと思います。参加していない者の言い草でないかも知れないですけれども、2年連続参加したことですし、まあ良いでしょう。

昨年の開催では、5日間延べ600時間の開催期間中、130のプログラムに30,000人の入場客、世界中から250人を超すジャーナリスト、250人以上のイタリア国内の専門家、200を上回る関連記事、2,200,000回に上る公式HPの閲覧があったと映画祭の報告にはあります。これはとんでもないことです。昨年と今年のFFFを見る限り、若者を中心に子供から年配者まで、アニメーション愛好家(あるいはアニメ好き)から専門家研究家まで幅広く受け入れられたイベントのようです。多くの人々が日本のアニメーションに関心があるのは上映室にいるだけで伝わります。あちこちから、日本語のタイトルが聞えてきます。

教授と思しき人物と生徒と思しき女学生の会話

女学生:「Hayao Miyazakiの作品だったら"La città incantata"が好きですわ、教授。」
教授:「ふむ、原題はなんだったかな、それは?」
女学生:「ええと、オリジナルのタイトルはなんだったかしらん・・・」
教授:「"Majo no takkyu-bin"か?」
女学生:「いいえ、それは"Kiki's delivery service"ですわ。」
教授:「おお、だったら"Sen to Chihiro"だな。」
僕:(心の中で)「当たり!!(しかし省略するとはなかなか上級ですな、教授)」

第10回開催の来年1月にここボローニャにいないであろうことがとても寂しく感じられます。今年のマッドハウス関係者の豪華な顔ぶれ以上の来客があるかと思うと嫌が上にも期待は高まってしまうのです。(と、言いつつ、彼らを見かけたのはホールで僕の友人らと談笑している姿を遠巻きに見た一度きりでしたが。座談会も本当は行きたかったんですよ。)

という訳で、来年以降もその動向を追ってみたいFFFなのです。

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それぞれの作品に関してはこのブログのタグにある「月間観た映画リスト2007年1月」とそのコメントで紹介してますが、特集の性格から言及できていない「白雪姫はもうすぐ70歳」特集だけここで触れておきます。

なぜ70歳かというとご存知の方もいらっしゃるとおり、ウォルト・ディズニー製作の『白雪姫 Snow White and the Seven Dwarfs』が1937年12月21日にロサンゼルスで初めて公開されたことに由来します。その日を白雪姫の誕生日とすると今年の12月21日に白雪姫は古希を迎えるのです。

ディズニー少年が1912年にブロードウェイで『白雪姫』の舞台を見るまでのエピソード、37年に作られるまでのエピソード、公開当時のエピソードがアカデミア(ボローニャの美大)の教授カルロ・マウロ氏によって熱っぽく語られました。「ハリウッド」を「オッリウードゥ」、「オールド・ミル」を「ホッルド・ミル」という見事なイタリア語英語も楽しかったです。(日本語英語の僕が言う言葉でもないですが。)彼の個人コレクションと思しきマニアックな短編フィルムの映写は全て8mmでの上映した。余談ですが、奇しくも、この上映で8mmを、『時をかける少女』で16mmを、中国アニメーション特集と『銀色の髪のアギト』で35mmを体験した稀有な映画祭となりました。昨年秋のポルデノーネ無声映画祭で知った30年代のディズニー製作アニメーション「シリー・シンフォニーズ Silly Symphonies」とのリンクもあって大いに楽しみました。計16本の小片映画でしたが、アニメーション制作のドキュメンタリーなども含まれていて、別室の「NANA特集」や「マッドハウス特集」を反故にして損はないプログラムでした。『白雪姫('37)』を35mmで観る機会、求めます。

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ボローニャの夏を代表する映画祭チネマ・リトロヴァートCinema Ritrovatoもそうですが、映画祭の運営に携わる人たちが若いことにとても刺激を受けます。イタリアの映画祭で分けてもらった前記の「イタリアの底力」をいつの日か発揮したいものです。
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by kantacantalavita | 2007-01-24 04:38 | 映画とは何か(cinemaについて)
2007年 01月 18日

Future Film Festival 2007

今日からボローニャではフューチャー・フィルム・フェスティヴァル(誰が言ったかFFF)というアニメーションの映画祭が始まりました。

映画祭というと少し語弊があって、テレビ用の30分番組なども映画館で上映します。ベータだったり、DVDだったり、フィルムだったり、なかなか映像の観点からも興味深いイヴェントです。去年は、チェコのイジー・トルンカ特集に参加した記憶があります。プログラムが発表される前から今年は楽しみにしていて、友人が企画を担当しているということもあって、今年は昨年よりはしっかり参加しようと思いフリー・パスも購入しました。ちょっと面倒な手続きをすれば10ユーロで5日の期間中の全作品が観れます。これはずいぶんお得です。

今年の注目は50年代のイタリア・アニメーションの一端を担ったガンマ・フィルムGamma Filmという集団の特集でしたが、すべてDVD上映なのでやや気分が盛り下がり、その代わり先の友人の企画「中国アニメーション特集」を個人的な目玉にしました。日本のアニメーションの父とも言われる政岡憲三の「くもとちゅうりっぷ(1943)」よりさかのぼる1941年の『鐵扇公主』に始め、50年代の上海美術電影(国立のアニメーション製作会社?)、80年代の作品などが取り上げられます。日本でもかつて上映されたものもありますし、『鐵扇公主』などはほとんど伝説らしい(こういう物言いが所謂「伝説」を作っちゃうんですね)ですし、市販のDVDで観れるものもありますが、幾つかはヨーロッパ初上映ということもあって、全て未見なので楽しみです。

やたら読みにくい映画祭ホーム・ページに代わってここでイベントの詳細を記すほどのボランティア精神は備えておりませんので、日本に関係するプログラムだけを少しここで挙げてみます。

注目は昨年のベネチアにも出品された『パプリカ』を制作したマッドハウス、ここにはFFFは数年前からずいぶん注目しているらしく、今年もずいぶんたくさんの関係者が来場します。丸山正雄、齋藤優一郎、湯浅正明、細田守(全て敬称略)とテレビアニメ版『NANA』のチーフ・エディターKoseki Junko(同、漢字もわからず)を囲む座談会もあるようです。プログラムではそのテレビアニメ版『NANA』の最初の4回分を上映する"NANA-Day"なんてのもありますし、細田守監督の『時をかける少女』の上映と座談会、神志那弘志監督テレビアニメ『牙』の3話分、湯浅政明監督同『ケモノヅメ』の3話分といった具合です。

もちろん他にもあって、もうわけがわからなくなりつつあるので以下列挙。

『銀色の髪のアギト』
『練馬大根ブラザーズ』 (1~3話)
タツノコプロ40周年記念アニメーション作品『鴉-KARAS-』 (第1話)
矢沢あい原作テレビアニメ『パラダイス・キス』 (1~3話)
劇場版『ブラック・ジャック/ふたりの黒い医者』
劇場版『鋼の錬金術師/シャンバラを行く者』 
『アタゴオルは猫の森』
『あらしのよるに』

あと、ハローキティをストップモーション(一コマずつ撮って動いてるように見せる技術)で撮った新シリーズもやるみたいです。カタログでは『ウォレス&グルミット』を引き合いに出して、「非常に難しい技術だ」と紹介してます。

さらに、「ビジネス・ブレックファスト」という企画がありまして、東映アニメーションが近年の作品を紹介するようです。参加者には朝食が振舞われるとの事。いやいや、朝食が出るからって言って、映写がないなら誰も行かないだろ、そう思うでしょ。ところが、イタリアらしい事情があります。イタリアで一部で伝説となったテレビアニメ『北斗の拳』、ある友人が「私のハーロック」と呼ぶ『宇宙海賊・キャプテンハーロック』、平日の昼過ぎに同居のマウロもイレーネも食いついて観ている『ドラゴンボールZ』、最近はあまり話題にならないながら一時期フィギュアをよく見かけた『聖闘士星矢』、僕でさえ存在くらいは知ってる『ワンピース』、これらに共通するのはなんでしょう?ええ、そうなんです。全て東映アニメーションの作品です。つまり、イタリアで放映されて人気を博したアニメの多くはこの東映アニメーションに関係しているんですね。一体どういう経緯があるんでしょうか、気になりますが、日本のアニメで儲けようと考えている人がこの朝食会に集うのではないでしょうか。

ふう~。

正確を期しておりますが、如何せんアニメーションは無知なもので、間違いがあるかも知れません。その際はこっそりお知らせいただけたら幸いです。

・・・唯一実写の映画は大林宣彦監督の『時をかける少女』。観たい・・・ですが、これを書くのに疲れました。・・・参加した分は報告します。ので・・・、もう・・・、むりです・・・。 



Future Film Festival 2007_e0017332_126372.jpg・・・?ん、ちょっと待ってください。
・・・おかしいでしょ?おかしいですよ。
・・・どういうことですか?いやいやそりゃないですよ、FFF。

明日からも『KENTA CANTA LA VITA』、がんばります!
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by kantacantalavita | 2007-01-18 11:11 | 映画とは何か(cinemaについて)
2006年 12月 05日

映画学Filmologiaの授業

今晩の美味いもんは「ヒヨコマメとポルチーニ茸のスープ」でして、『KANTA CANTA LA VITA』です。いえいえ、そんなたいそうなもんではございやせん、え、なあに、ただね、缶詰のヒヨコマメをさっと洗って、粉末鶏がらスープと乾燥ポルチーニを数枚と乾燥ネギを少々入れたダシでさっと煮るんです。このタイプはおそらく煮込みすぎてもいけねえやとの判断から、十分温まったら弱火で数分煮ておしまい。たいそうどころか貧相なくらいですよ。ところがね、こいつがやたらと美味い。ヒヨコマメってやつぁ、実際見りゃわかるけどね、ありゃ完全にひよこだね。可愛らしすぎてね、食べたくなくなっちゃう。ところがこのスープがべらぼうに美味いってもんで、かわいいも何もあったもんじゃない。ひよこにしちゃあ堪ったもんじゃないだろうね。かわいいな、かわいそうだな、なんて思ってるうちに一匙、二匙とすすんで、気がついたら器は空っぽってもんだ。試してごらんよ、奥さん。おーい、奥さん!!薄味が肝心だよ!!あ、それからね、旦那に「透けたダシが取れるようになりましたっ・・・」ってさりげなく言うのがコツだよ。本当だよ。

閑話休題。先週今週と無声映画の上映の合間を縫うようにして行われた「映画学」の授業ですが、先週はアムステルダムのハーゲ・フィルムHage Film、今週はボローニャのインマージネ・リトロヴァータImmagine Ritrovataのラボの仕事をビデオで見ました。先週はビデオ・デッキが不調で前者を見終わった後でテープが飲み込まれ、伸びて出てきたテープを示して「これはひどい劣化と損傷だ」なんて冗談をよそにカノーザ先生は、今日は万全にDVDで素材を用意していらっしゃったので、これしめたとばかり、「貸して欲しいんですけど」と申し出ましたがあえなく断られ、今日の授業のメインテーマであった「複製duplicazione」をお願いすることもできず、「フィルムの修復とはすなわち複製を意味する」というその意味が、「複製」の難しさ、「修復」の難しさと相まってひどく僕を打ちのめしました。色んなこと夢見てたんですけどね。

まあいい。なにせここにきて、数年前に見学に訪れたイマジカ・ウェストやイマジカで目にしたもの、日本国内某フィルム・アーカイブで個人レッスン的に体験したことが授業内容とリンクするため、具体的な色彩を帯びて思い出されるからです。当時記した報告書や日記なんかをめくるとその感覚はより現実的になって、しかも説得力まで備えて甦り、けっしてけっして無駄ではなかったんだなあと、感動まで覚えます。

だからこそ今していること(映像、紙資料を手に入れるとか、手当たり次第映画を見るとか)が、今は全く廃品回収的に思われても後々活きてこないなんて誰が言えましょう。必ず活きるとまでは言わないまでも無駄なことなんてないですよ。

だからこそかの二つの映像はどうしても欲しかったんですけどね。明日また切り出してみます。しつこいこと、諦めないことも、しばしばこの国では要求されるのです。その後できれいさっぱり忘れる、あるいは圧縮して保存しておく。

最後に、今日の映像で面白かったのは、シュトローハイムの『愚かなる妻』に、アメリカ版とイタリア版というのがあるということです。同じタイトルの作品なのにフレーム内の端役の構成が違ったりショット数が違ったりするわけです。そこまで言及しておきながらほとんど「うっちゃり」的に「いつの日か監督の望んだ形で復元されるように願う」と放り出してしまっているビデオについての指摘をカノーザ先生はもちろん忘れず、この先に修復のもう一つの大事な側面、今やっているfilmの物質的な側面と二本柱をなす「テクスチュアル(日本語でなんて言うんですか)な側面」があり、それを扱うのが学部既卒者対象の「映画の文献学Filologia del cinema(この訳ももっと練る必要があると思うんですけど)」なのだと強調されました。去年も出席しましたが今年も参加を予定しています。僕みたいなイタリア語の出来ない学生は2年続けて受けた方が良いというのもありますが、同じタイトルの授業で全く同じことをやるということはほとんど不可能に近く、結局何らかの新しいものが見つかるんじゃないかという憶測が働いているのです。

by kantacantalavita | 2006-12-05 05:10 | 映画とは何か(cinemaについて)
2006年 11月 07日

映画批評とは何か(あるいは映画批評批判への私的返答)その2

生真面目な美術学生がその生真面目さゆえに放棄した映画批評を、「芸術を研究する」という点で彼と立場を同じくする不真面目な映画学生に丸投げしたことから始まりましたこの「映画批評批判」論争、これが前回ずいぶん抽象的であったことに対して、僕の「実際の映画批評」の様子はより具体的に記すことができます。

まず第一に、僕は絶対者ではない、それゆえに作品に対して(私的とは言え)絶対的な評価を下すことができない、そんな自信はさらさらない。第二に、「総じて評価する」ほどの土台がない、土台とは知識であり、経験であり、そこから養われる映画を理解する力、映画の文法の読解力であり、その未熟さが「評価」を下す裁定者としてはふさわしくないように思える。第三に、今僕はイタリアにいて見る映画のほとんどがイタリア語吹き替えあるいはイタリア語字幕な訳で、根本的に言語の未熟さが映画作品解釈の妨げになっている。第四に、そもそも翻訳の台詞、字幕なんてものもずいぶん怪しい。

で結果として、批評としてはしてはいけないと思う「小さなことへの執着」、つまり「総じた評価」とは真逆の「分析」の方向に向かっている、ということです。僕の書いた作品に対するコメントを見れば一目瞭然ですが、いちいち細かいことを論って興奮しております。もちろん少なからずその小さなことへのこだわりが作品の本質を射抜いてることを切に願ってはおりますが、当然のことながら的外れなことも言ってしまう。「分析」と言えば聞こえは良いですが、多くはその実、「ちょっと気になったことのメモ」なのです。作品に対して一番無礼なのは実は僕なのかも知れません。

当然そう指摘された時のための答えも用意してます。自信がない人は自信がないなりに言い訳を探すのです。

まず、「ちょっと気になったことのメモ」とは言ったものの、これだけの数の映画作品を観てきたわけですから、僕が気になることは少なからず特徴的なものである自負はあります。気になった特徴的なことと気にならなかった特徴的なこと(すなわち見逃し)なら、おそらく前者の方が多いでしょう。作品の中に重要でないものはないという前提の上で、その中でもさらに特徴的なものをずいぶんと拾えるようになった自信はあります。さらに、作品にとっては小さなことも、視野を広げて映画全体について考える時には不思議なことに大きな要素となりうるのです。繰り返しますが、その小さなことが作品の本質を突いているならば、それがさらに映画全体の一部をも担っているわけですから物言いはつきません。ただ物語に関係がないからとか、監督がやりたかっただけだろうからと、見過ごすことはできないはずなのです。例?例ですか?例えば『ロベレ将軍』のワイプ。画面の中をワイパー、あるいはカーテンのように縦横断して場面を切り替える技法。59年の作品であのワイプはすごく特徴的ですし、ワイプがよく用いられるのは概ねコミカルな場面であるはずなのにこの作品では違う。誰かが「ワイプ論」を書くときは間違いなく引用しなければならないはずです。ワイプについて論じるならその使用方法、形態、歴史的背景、物語との関連などを軸に「モンタージュ論」でも使えるかもしれない。「小さなことの中に全てがある」と言ったのはZ先生です。拡大解釈ですがあながち的外れともいえないような気がします。

つまりは僕がやっていることは、僕が前回言ったような形では映画について語っていないわけで、それは結局のところ、ぼくがやっているのは映画批評ではないと言うことです。

つい数年前までは僕も、「映画は作品が大事なんだ。」というようなことを言ってきました。ところが、自身の現在の研究では作品研究を大々的には取り上げないこと、またその一方で将来的な興味として「作品」からは離れつつある、さらには今イタリアでイタリア語がわからなくそれでも映画は楽しくて、これって一体なんだろうなあと考え始めている、この3つが、僕に若干の変化をもたらしたようです。相変わらず作品がまずあります、それは覆りようがありません、にもかかわらず視点が少しずれてきたというのが自身の印象です。作品の細かい部分に目を向けながら、その先にはもっと大きな作品とは違う映画を目指している。そんな気がします。ある女の子が好きでその子の左の耳がとても好きで、そんな左耳を持ってる彼女がさらに好きになる、なんてことはよくあります。そしてその一方で女の子ってやっぱり良いなあと考えることもないとは言い切れない、卑近な例で申し訳ないけれど似てなくもないです。

言っていることが自家撞着でやっていることが自己矛盾ならこれほど手に負えないことはありませんが、自分でもまだ手探りなのです。これじゃあ駄目だというところまで行ってから考えます。それまで当然映画作品への触れ方もこのままなのではないか知らん。

さてさて、今ボローニャの一部でで大流行の「映画批評批判」、この先には何が待っているのでしょう。

つづく(かしら)

by kantacantalavita | 2006-11-07 11:37 | 映画とは何か(cinemaについて)
2006年 11月 06日

映画批評とは何か(あるいは映画批評批判への私的返答)

えー、毎度、どこまでも個人的な話、『KANTA CANTA LA VITA』です。

ここ数日ボローニャの一部地域において、映画について語り尽くされた今さらながらに、あるいは映画について語り散らされている今だからこそ、「映画批評とは何か」について熱っぽい議論を交わすことが一つのトレンドとして取り沙汰されています。映画について語るはずの批評について語る一種のメタ批評、さらには映画について語るはずの批評について如何に読むかについて語るメタメタ批評です。

ある生真面目な美術学生が、インターネット上であまりにも雑多に書き殴られている所謂「映画批評」に対して、映画の世界からは距離を置いて、飽く迄客観的な視点から一石を投じたことに端を発します。曰く、あれは批評などではなく単なる私的な感想だ、と。

詳しくは"Frammenti Bolognesi"内、『映画批評って・・・?』、『映画批評って・・・2』をご覧ください。

確かに今日、ひと度インターネットの検索ページで「映画批評」と打ち込めば、そこには「~の映画批評」やら「・・・が映画を斬る」やらと題されたもの、あるいは「毒舌」なり「辛口」なり何らかの形で何かを「超」えた「映画批評」が散乱していて、それぞれに何か知らんの個性化を図りながら、結果的にその数は世に公開されている映画の数を圧倒的に凌ぐに至ります。そして事実、それらの少なからぬ批評群は概ね「何も語っていないんじゃないか」という意味において、「批評でさえない」と言えるかも知れません。「女優の誰某が良かったから作品として60点」って、僕が冗談で言う(ジョークとしてでさえ面白くない)ようなことを、見えないしたり顔で書かれても読む側としては困ってしまうわけですし、まして、「どこそこの場面が面白くなかったから星3つ(最高5つ)」とか「今週のダメな作品はコレ!!」とか、何の前触れもなく「私はこういう映画、好きです」というのは、いくら言論の自由が保障されているとは言え、また作品を擁護するものであれ中傷するものであれ、その作品に対して公平ではないように思えるのです。

それで話の矛先は、「映画批評とは何か」という方向に向かいます。映画批評のあるべき姿とは思うに、作品に対する、物語やその背景、演出と演技、それらのための技術などを総じた評価であることです。他の言葉はいざ知らん、少なくとも「批評」とはそういうものだと捉えています。大それたことのように聞こえますが、映画批評とは事実、大それたことなのです。「これが俺の表現だ!!」と大それたことを言う表現者に対する大それた返答、それが批評です。向うが真摯に表すのならばこちらも真摯に答えなければなりませんし、大それたことをする以上、作品を堪能(せめても理解)するこちらの力が求められ、さらにはそのための揺るがない土台(それは映画を観る経験であり批評を読む経験であり映画を勉強する経験です)が要求されるのです。作品を肯定するか否定するか、批評自体が主観的か客観的かはこの段階では問いませんが、いずれにせよ批評という行いはひとつの作品に判断を下すことを目的としているわけですから、厳密な意味においての作品の絶対者である監督に対する、もう1人の絶対者、もう1人の神のなす業であるべきなのです。(「観客は神さまだ」というのは興行の成功不成功を示す比喩とは限らないのです。)安直で表面的な神の物言いとそれをインターネットという不特定多数の目に触れる場で公表することは、そのこと自体で作品を蔑ろにしているばかりでなく、自らの悪徳・冒涜を暴露しているように思え、あまつさえ「~批評」と言いつつ自らを批評し、「・・・を斬る」と言いながら自らを斬り、作品について「吐いた毒」が自らに吐きかけられる。映画に限らず何かを「批評する」ということは、先の友人が語ったようにそれほどまでに責任あることなのです。このことを念頭に置くこともなく、「総じた評価を下す」ための土台もないがために、表面的な事柄に拘泥して軽々しい評価、誤った断罪を下してしまう、その意味での私的感想文的「映画批評」が氾濫する今の状況が出来上がってしまったと言うこともできるのです。

ある種の絶対者である神々や聖人に得意分野があるように、映画批評にも得意分野やスタイルのようなものはあっても良いとは思いますし、それゆえに常に肯定的なもの(あるいはその逆)、さらには一時的に客観的なもの(あるいはその逆)になることだってありえます。その意味で映画について書くことが「大それた(責任のある)」ことが意識されているのであれば、私的であれ公的であれ、好きであれ嫌いであれ、理論的であれ実践的であれ、愛であれ憎悪であれ、感想文であれ評論であれ批評であれ、映画に関する全ての議論は書かれるべきであり、発表されるべきであり、その時初めてインターネットの公共性が有効になると思います。

と言うようなことをここで僕が吠えても、「映画批評」が自らで洗練したり、あるいは「映画批評批判」に淘汰されることもありません、所謂「私的感想文的映画批評」は少なくともインターネット上ではますます増殖することでしょうし、その安易さがインターネットという利便性と危険性を備えた諸刃の剣なのです。ここに至って「映画批評をどう読むか」が重要となります。それはすなわち、溢れ返る批評の中から読むに値するものを選び出すこと、選び出すためにできる限りの「批評」を読むこと。野放し垂れ流しになっているのですから、探すのにそれほどの労力は要りません。その上で映画を観る前であるならば飽く迄ニュートラルでいること。大それたものであることを求められる「批評」は、その実単なる戯言であることも認識しなければなりません。批評は二次的なものに過ぎず、飽く迄重要なのは、映画作品それ自体に触れることであって、批評を読むことではないです。前評判で期待しすぎたせいで、鑑賞自体が空振りに終わってしまう、そういった僕自身の経験からの僕自身のスタイルです。次いで、これから読む批評が既見の映画作品について書かれているのであるならば、その批評に対して評価、すなわち批評を批評をする目を持つことが必要となるのです。これは先の美術学生にして我が友人の言うとおりです。ところが僕がここで主張したいのは、このことが言い換えれば、つまり映画批評を批評するということは、自らがその映画作品を批評することと等価であると言うことなのです。何かに対する評価を読むためにはその何かに対する自身の評価を持たねばならず、それが故あってできない場合には、常に公平でいる、来るべきその時まで白にも黒にも染まらず透明でいること。「批評」やら「評価」やら「感想」やら言葉は様々ですが、つまりは映画とそこに含まれる映画作品について書かれたものを読むということは、その作品について自身で何か考えること、さらに一歩進めばその作品について自らで何かを語り、それを書くこと、これが映画批評を読むための姿勢、つまりは「映画批評批判」です。この考えに基づけば(基づかなくても)本来、まだ観ぬ作品について批評することは不可能なのですが、先に触れた「前評判に踊らされる」ことはこれとほぼ同義であり、フェアではない映画批評を書くこと以前に作品に対してアンフェアなわけです。健康じゃないと思いません?宣伝(他人の批評)に振り回されるというのは。

映画批評を批評するために映画批評をするという、ともすれば自家撞着的な発想ですが、映画作品に近づこうとするあまり副次的な批評を書くことも読むことも嫌っていた僕が、さらに映画に近づくために結果的に選んだスタイル、それが「映画批評批判としての映画批評」です。

by kantacantalavita | 2006-11-06 23:00 | 映画とは何か(cinemaについて)
2006年 10月 29日

ポルデノーネ無声映画祭2006雑記

一応、前回の投稿で、「無声映画祭の何となくの紹介」、「映画祭の写真」、「特集・プログラム・イベントの紹介」、「映画祭のプログラムに関係する日本のイベントの紹介」、「映画祭初日から最終日まで」という流れでお届けしました、今年2006年のポルデノーネ無声映画祭を報告は終了です。全く学術的考察ではない、何かしら日記のようなのんきなものを目指したつもりですが、その時々で付け焼刃的な専門用語が出てきたり、掘り下げることなく丸投げにしてしまっているのは、僕自身の「まだまだ」の未熟さで、まあ今回はわれながらこれで良しとします。

ところが読んで頂ければはっきりと感じられるとは思うのですが、実に「取りこぼし」の多い報告でもあります。そりゃそうです。2週間も前のことを克明に記憶している脳みそなど持ち合わせていませんし、それを取り繕う雄弁な筆もありません。本来からして観た端からその映画のことを忘れてしまう傾向にある、ザルのような脳みそとその所有者なのです。そういうのは気づいた時や何かの折に思い出した時に、追々書ければ良いかなあと思います。

で、いきなり幾つかの補足。

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映画祭期間中、毎日18:00から書籍市会場脇の広場で開かれる「ミーティング」で唯一参加したイタリア映画界に関する座談会"immagini del cinema italiano"では、色々と興味深い話を聞くことができました。オンラインの所蔵目録をそれぞれのシネマテーク/アーカイヴが作るとか作らないとか、そのことに関して「ローマの『チネテーカ・ナツィオナーレ』はどう思うんだ!!」「フィルムを隠すな!!」とか、30年代のイタリア映画DVD集が作られるとか(この会社からはすでに「マリオ・カメリーニ×ヴィットリオ・デ・シーカ作品集」というのが発売されてます)、フランス人の学生がイタリアのシネマテークに関する本を執筆したとか、そんな話です。膨大な量の映画資料を抱えるトリノの映画博物館が具体的な計画を述べるかと思えば、ミラノのルーチェ映画会社は多くを語らず何か含みを残した印象を与え、聴衆に混じって話を聞いていたボローニャのチネテカ関係者は途中で姿を消し、国立であるチネテーカ・ナツィオナーレは最後の最後まで口を開かず、どこか知らん、開かれているようで謎の多いフィルム・アーカイヴ事情を垣間見た気がしました。座談会後に振舞われたワインとちょっとしたおつまみはとても美味しかったです。

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映画祭終了後、ボローニャに帰る前に、ポルデノーネから程近いカザルサ・デッラ・デリツィアに立ち寄りました。ピエル・パオロ・パゾリーニのお墓がある町です。前にも記しましたが、この町にあるパゾリーニ資料館の道向かいBar(喫茶店)のオーナーの息子がポルデノーネ無声映画祭の運営委員の一人です。先月9月20日にザヴァッティーニの墓参りもしたこともあって、パゾリーニの眠る町はどんなものかと興味はありました。無宗教者だったパゾリーニらしく、何の飾りもないただ名前だけが記してある墓石でした。質素だったザヴァッティーニの墓よりもさらに飾らず、でも、傍らに一本の木が植えてあるところは両者に共通しています。はるばる日本(実はボローニャとローマ)から墓参りにやってきた僕らに影響されたか知らん、Barでたむろしていたおじさん連中の一人が自転車を引いて同じ共同墓地にやってきたりもしました。穏やかな日曜日の穏やかな午後でした。

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映画の誕生について。以下は、ミケーレ・カノーザ先生の「映画学Filmologia」という授業で、先生が言ってたことの受け売り。一つの考え方ではあると思いましたし、なによりこれまで全く考えてもみなかったことなので少し。「エジソンのキネトスコープは誕生から程なくして手作業で色が付けられるようになった。リュミエール兄弟のシネマトグラフの映写では、最初の上映からすでにピアノの伴奏がついていた。このことを踏まえると『映画cinema』はそもそもカラーとサウンドを含んだものだった。白黒映画や無声映画とはその後に生まれたものなのだ。色にしろ音にしろ後から付け足されたものではなく、取り除かれたものだ。」どうです?新しい気がしませんか?それとも僕が知らな過ぎただけかしら。先生は一般的に考えられている映画史の方向性とはちょっと違うそれを強調してました。繰り返しますが、「一つの考え方ではある」と思います。年内一杯続くこの授業の今後の展開が楽しみです。

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「劣化フィルム映画祭」というのが世界に存在するかはわかりませんが、そんなものに興味を持つのは、僕のような行く先を見失いつつある人間の考えることでしょうか。でも、劣化したものも実は美しいんですよ。なにかしら愛しく思えてしまう。フィルム、映画、cinemaには相変わらず寛容です。

by kantacantalavita | 2006-10-29 03:53 | 映画とは何か(cinemaについて)
2006年 10月 21日

Le giornate del cinema muto 2006 (ポルデノーネ無声映画祭点描その4)

ポルデノーネ無声映画祭に関連して日本国内のイベントをひとつ紹介します。


◆関西学院大学 秋季オープンセミナー(公開講座)◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
関西学院大学が秋季オープンセミナーを開催します。

●西宮上ケ原キャンパス講座
「デンマーク文化の光輝(かがやき)
-アンデルセン・キルケゴール・ドライヤー-」
10月15日(土)10:00~12:00
ヨーロッパを旅するアンデルセン-生誕200年を記念して-
大阪外国語大学 助教授 田邊 欧
10月22日(土) 10:00~12:00
キルケゴールとコペンハーゲンの同時代人-没後150年を記念して-
神学部 助教授 平林 孝裕
10月29日(土) 10:00~12:00
世界をめぐるデンマーク映画-ノルディスク・フィルム社100年を記念して-
法学部 助教授 Christian M. Hermansen
定員:400人(先着順、定員になり次第締切)
会場:関西学院大学 上ケ原キャンパス B号館101号教室

詳細


ノルディスクの歴史イコールデンマーク映画史的な部分が少なからずあると思うので、ぜひ聞いてみたいものですが・・・。

by kantacantalavita | 2006-10-21 02:26 | 映画とは何か(cinemaについて)
2006年 10月 20日

Le giornate del cinema muto 2006 (ポルデノーネ無声映画祭点描その3)

映画祭期間中の企画の紹介です。

【特別上映】
前夜祭上映 『東への道』(ポルデノーネ、ヴェルディ劇場にて)
開幕上映 『スージーの真心』(サチーレ、ザンカナーロ劇場にて)
閉幕上映 『牡蠣の王女』(サチーレ、ザンカナーロ劇場にて)

【特集上映】
イタリア特集 『カビリア』の前と後 ITALIA - prima e dopo "Cabiria"
 イタリアのアーカイヴ(と他国のアーカイブの協力)によるイタリア映画作品の修復と、その紹介です。1914年製作の伝説的作品『カビリア』の、オリジナル・ヴァージョンと1931年に修復・再編集されたサウンド・ヴァージョンを中心に、『カビリア』以前の大作であり、ホメロスの「オデュッセイア」を映画化した初期作品のひとつ『オデュッセイア』、さらには『カビリア』から生まれたヒーローを取り上げた所謂「マチステ」モノ2作品が用意されました。
  
再考トーマス・H・インス IL RITORNO DI THOMAS H. INCE
 1984年第3回の無声映画祭で「ウェスタンの予言者トーマス・H・インス」という企画が組まれ、インスの関わった29作品が上映されました。それから20年以上が過ぎた今年、当時に居合わせなかった人たちのため、また企画自体を補完するためにこのプログラムは組まれています。インスはその14年ほどのキャリアの中で、監督/プロデューサーとして約800本の作品に携わった人のようです。

第10回グリフィス・プロジェクト GRIFFITH PROJECT, 10
 10回を数える記念的な企画。今年は1919年から1920年にかけてのD・W・グリフィスの作品を上映。カタログにはこの時代のグリフィスに関して次のようにあります。「第1次世界大戦直後の、グリフィスの黄金時代の末期」。

ノルディスク100年 NORDISK 100
 デンマークの映画会社「ノルディスク・フィルム Nordisk Films Kompagni」の設立100周年を記念した企画。カタログによれば、「今日においても、北欧の主要な製作会社のひとつ。ただし、その黄金期はサイレンと時代にあった。」とのこと。とすれば、その後の70年以上はなんだったのか気になるところです。

シリー・シンフォニー SILLY SYMPHONIES
 ミッキーマウスがデビューした1928年11月の半年後、1929年6月に始まった、動く映像と音楽を融合させたウォルト・ディズニーによるアニメーション・シリーズが「シリー・シンフォニー」です。カタログの寄稿者J・B・カウフマンとラッセル・メリットによれば、「1929年にアメリカでは、実際問題としてサイレント映画は終焉を迎え」ました。映画界の内外でその喪失が嘆かれ、その10年後には、リリアン・ギッシュが簡潔な言葉で語っています。「映画は音楽と結びつくべきだったのよ。言葉とじゃないわ。」事実、このプログラムに音声としての言葉は存在しません。

映画の中のマジック LA MAGIA NEL CINEMA
 映画の歴史における最初の10年に欠かせないのがこの奇術フィルムであり、そこにリュミエール兄弟とはまた異なる映画の父ジョルジュ・メリエス作品が含まれるのは言うまでもない史実として知られていると思います。この企画では、同様の魔術師/映画人の作品を取り上げ、そこには、リュミエール社やパテ社で仕事をしたドサ回りの手品師Gaston Velleや、後にヴァイタグラフを設立するJ・スチュワート・ブラックトンとアルバート・E・スミスのコンビなどが含まれます。

ルイーズ・ブルックス生誕100周年 LOUISE BROOKS 100
 サイレント映画のスターの生誕100年を記念する企画。1930年の作品『ミス・ヨーロッパ』とブルックスに関するドキュメンタリー"Louise Brooks: Looking For Lulu"を上映。

ヴァイタフォン・ヴァライェティーズ VITAPHONE VARIETIES
 ヴァイタフォンとは、光学式サウンドトラック以前のサウンドシステムで、レコードの再生とフィルムの映写をシンクロさせて、音のある映像を得る技術。ヴァイタフォン・コーポレーションは1926年にワーナー・ブラザーズ社によって設立され、主にサウンド映画を製作しました。世界初のサウンド映画『ジャズ・シンガー』も、ヴァイタフォン・システムを採用していたとか。1927年から1930年までの間にヴァイタフォン・コーポレーションは、約2000の短編映画を世に送り出しました。今回のプリントは、35mmオリジナルネガと同マスターポジ、ヴァイタグラフ・オリジナル・レコードから修復。(光学でフィルムにプリントしてるのかな。)

映画スター STELLE
 作品の再発見、修復、再考により見出されたサイレント期のスターを4人紹介する企画。4人とは、マリー・マイルス・ミンター、オリーヴ・トーマス、ルドルフ・ヴァレンティノ、ロン・チェイニーです。むむむ。

おやすみサイレント GOODNIGHT SILENT
 映画祭恒例の企画で、その日のプログラムの最後に短編を上映。過去にはブルーフィルム特集が企画された年があったとか。喜劇であったり、おとぎ話であったり、ちょっぴりエロチックで、異国情緒に富んでいたり。ちょっとした喜びを味わって、「じゃあ、また明日。」と帰途につくための、「おやすみ」の挨拶替わりの上映です。

ミュージック・イベント EVENTO MUSICALE
 ポルデノーネ映画祭はサイレント映画のお祭りですが、上映自体が無音ということはありません。ほとんどに生演奏が付き、それ以外は光学式サウンドトラック以前のサウンドトラックが再現(例えば上記、シリー・シンフォニーズとヴァイタグラフの特集)されます。そうした通常の音声付上映のほかに、夜からの上映の一番最初(概ね20時30分から)に、このイベントが用意されています。トーキーが現れる以前史として、世界中で映画に関する歌が歌われていたとのことで、"Ditelo con la musica(英語ではSay it with music)"と題されたこの企画では、いまだ十分には研究されていないこの現象を再現することで、歌詞に載せられた当時の状況を浮かび上がらせるというものです。余談ですが、ボローニャの授業で、「フィルムにサウンドトラックが付いていないというだけで、『映画の誕生』と言われるグラン・カフェでの上映も、ピアノ伴奏が付いていたことからも、本来、サイレント映画というものは存在しない。」と言っていたのは、Filmologiaのカノーザ先生です。むむむ。

画面外 FUORI QUADRO
 映画用語「画面外(スクリーンの外)」のアナロジーとして、その他にも、サイレント映画周辺に関する多くの作品が上映されます。

【展示 MOSTRE】
チャップリンの影 L'OMBRA DI CHAPLIN
 チャップリン研究家大野裕之さんによる「高野虎一の記憶」と題された展示。海老天を食すチャップリンや極めて日本的なパーティに埋もれるチャップリンなど、高野氏(故人)を通じて日本を知った彼が日本を訪れた時の写真を中心に、公開当時の映画ポスター、新聞、雑誌のチャップリン関連記事。

沈黙のイメージ IMMAGINE DEL SILENZIO
 ジャンナ・キアペッロGianna Chiapelloさんによる「トリノにおけるサイレント映画史」と題された写真展。メイン会場の前の道端に特設。

【ジャン・ミトリ賞 PREMIO JEAN MITRY】
 1986年から続く、映画の保存・修復に貢献した個人、団体に贈られる賞で、過去には日本人の小松弘早大教授も受賞している。今年はRoland Cosandey、Laurent Mannoni両氏に。スピーチは英語とフランス語で、イタリア語の同時通訳を聞いていなかったため、詳細不明。受賞者の前にスピーチした映画祭幹部のピエロ・コルッシPiero Colussi氏は、映画祭が終わった後に僕たちが訪れた、パゾリーニが少年期を過ごし、死後、最愛の母と眠るカザルサ・デッラ・デリーツィアCasarsa Della Deliziaにあるパゾリーニ・アーカイブの、その道向かいにあるバールのオーナーの息子だった。(そのバールにたむろしていたおっさんら談。)

【コレギウム COLLEGIUM SACILENSE 2006】
 サチーレにメイン会場が移って以来続く勉強会で、今年で8回目を数える。主に若手が中心となり、かつてここで発表なり議論なりに関わった人たちが、現在は各地の研究所、教育機関、ラボ、アーカイヴなどで活躍していると、カタログにはあります。今年は初めて、「コレギウム卒業生ex-collegian」のマシュー・ソロモンMathew Solomon氏が映画祭のプログラム(映画の中のマジック)を担当したとのこと。期間中毎日13時から開かれることになっていますが、限られた休憩時間と重なるため参加できず。「若者は飯も食わずに映画のことを考えてろ。」的なスパルタ式でありながら、どこか牧歌的な印象を得ました。間違いなく参加者は世界の優秀な人たちなのでしょうけれど。今年は、映画保存協会の活動も報告されたとか。

【フィルム・フェア Film Fair】
 かつての教会施設で開かれる書籍市と、その隣の庭のようなスペースで行われる座談会です。市ではポスターやDVDの販売もあり、暇を見つけてはしこしこ通いました。収穫もあり。

【25周年記念立食パーティ HAPPY HOUR OFFERTA DA HAGHEFILM】
 オランダのハーゲフィルムが提供する、映画祭の25周年を祝った食事会。ハーゲフィルムの大盤振舞いぶりは圧巻。

【映像と音楽の学校 SMI - SCUOLA DI MUSICA E IMMAGINI】
 サイレント映画の伴奏の教育と普及を目的としている珍しい企画。元は7人の無声映画伴奏専門家と若手の技術と経験の共有、ふれあいの場であったとのこと。幾つかの変遷を経た後で、現在は、毎年1人の若手音楽家を招待し、専門家と映画祭での演奏を共にすることでレベルアップを図るというものになっているようです。

by kantacantalavita | 2006-10-20 06:17 | 映画とは何か(cinemaについて)
2006年 10月 17日

Le giornate del cinema muto 2006 (ポルデノーネ無声映画祭点描その1)

25回を数える当映画祭の公式カタログにあるイントロダクションの、さらに最初の文章には以下のようにあります。

「25年前、10人にも満たない仲間たちが集い、マックス・ランデとクレティネッティをとりあげた小さな映画祭(今考えてもそのプログラムには目を見張るものがあります)をある週末に企画しました。もちろん彼らは、野心を抱いていたわけでもなく、まして彼らの生み出したものが世界的規模の唯一無二のイベントとして、2006年に25回目の記念日を迎えることになろうとは考えてもみませんでした。」


さらに序文は続けます。

「最初の年の来場者は8人でした。2年目には『一気に増え』てその数は50人ほどに上りました。そして昨年2005年には本映画祭に世界中から800人を超す人々が集い、さらに今年2006年には、サチーレはより多くの来客で賑わうことでしょう。」


Le giornate del cinema muto 2006 (ポルデノーネ無声映画祭点描その1)_e0017332_7585566.jpg以上がイントロダクションの最初の段落ですが、非常に感動的です。1年目の観客が8人というのがすごく良い。2つ目の引用からも察することができるように、「ポルデノーネ無声映画祭」として世界に知られるこの映画祭は、じつは8年前からその主会場を近隣の町サチーレに移しています。劇場の新設に伴い、来年以降は再びポルデノーネがメイン会場になるとのことですが、会場移転の詳しい経緯はここでは省略します。ポルデノーネの劇場の老朽化が理由だったはずです。

サチーレは、町を囲むように流れる川が印象的な町です。川自体はとても小さなもので、浅い川底には水草が揺れ、ちらほら魚が泳ぎ、川岸にはアヒルや鴨、鶏の親子我が物顔でくつろぎ、穏やかな午後にはカヌーで行く人々の姿も見かけます。公園があり、教会があり、散歩道があり、スーパーがあり商店があり、ちょっとした服屋がありちょっとした本屋がある、普段の慎ましい生活が容易に想像できます。ところがそんな静かな町を一変させてしまうのが、この無声映画祭です。期間中、町は世界中から集まった映画ファンであふれかえります。文字どおりあふれかえるため、来客たちは近郊の町に分散して宿を取り、あるいは期間中都市間を結ぶ専用のバスを利用し、あるいは自転車や自動車といった自力で会場と宿を往復する日々を送ります。

後述しますが、映画祭は複数の特集上映を主として、研究会、討論会、展示、映画関連の書籍とグッズ・映像ソフトの販売などから成ります。25周年を記念したイベントでは食事と飲み物が振舞われました。登録やインフォメーションがある本部施設にはインターネット・ポイントも設置され、無線LANの使用も可能です。上映はチケット制ですが、僕たちは登録式のフリーパスを30ユーロで購入しました。このパスで、オープニングとクロージング以外の全てのプログラムを見ることができます。開会式、および閉会式とその際の上映はそれぞれ14ユーロでした。パスが30ユーロで、充実したカタログが料金に含まれているわけですから、毎回生伴奏付であることを考えるまでもなく格安としか言いようがありません。

6日に現地入りし、簡単に下調べをして、「臨戦態勢」を整えます。

by kantacantalavita | 2006-10-17 20:52 | 映画とは何か(cinemaについて)
2006年 10月 05日

忘れないうちに、ラボ見学報告。

先日、人の繋がりがあってチネテカのラボを見学することができました。

詳しくはコチラ

by kantacantalavita | 2006-10-05 04:32 | 映画とは何か(cinemaについて)